2008年11月29日土曜日

梅太@ DVD:『ビッグフィッシュ』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 ~~~~~~ ストーリー ~~~~~~~~~


 エドワード・ブルームは、大の話好き。彼の語る話は面白く、自然と人が彼を取り巻く。
 そんな父を持つウィル・ブルーム。子供の頃はエドワードのワクワクするような話が大好きだった。
 しかし、大人になったウィルは一つの疑問を持つ。「いったい何が真実なんだろう」
 エドワードにまつわる何千何万という話は聞いてきたが、その荒唐無稽さ故、エドワードの本質が見えないことに気付く。
 ウィルの婚礼の日、ついにその思いを伝えるが、それがキッカケで父子は断絶する。

 数年の後、エドワードは病に倒れる。残された日は少ない。
 実家に戻ったウィルは、エドワードの口から真実を引き出そうとする。
 そしてエドワードが語ってきた空想と現実を摺り合わせようとするのだが・・・

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 このブログを立ち上げ、一番最初に書いた自己紹介の記事で、この『ビックフィッシュ』は僕の思い出の作品であることに触れました。
 今現在、こんなにも映画が好きなのは、この作品があったからです。
 以来、何かの節目の時には必ず鑑賞している作品で、僕は数日前誕生日を迎えたので、その折に。

 ティム・バートン作品の中でも最も好きな作品でありまして・・・・


--------------------------- 思い出 ------------------------------

 昔から映画は好きだったのですが、高専に入学し2年間くらいは、勉強(いや、ホントか?)と部活(これはホント)に精を出していて、映画館にあまり行ってなかったのです。
 3年生になって少し落ち着いてきた頃、ふと、この作品の宣伝に惹かれました。

 TOHOシネマズ六本木ヒルズ(当時はまだ「ヴァージンシネマ」だったっけ)に行き、超巨大スクリーン(8.4×20.2)で初日初回に鑑賞。

 久々の映画館というだけでワクワクしてたのもありますが、上映開始直後から世界観に惹きこまれる。

 エドワードが語るサーカスのお話で、「運命の女性に出会うと、本当に時が止まる」というシーン。
 この辺りでは、もうどっぷり浸かってました。
 そして庭いっぱいに広がる水仙畑
 戦争からの帰還。
 
 映画ってすごいなぁ・・・

 そして最後。エドワードの死に際に、ウィルが語る”エドワードの最後”の話。
 そのあまりの素晴らしさに、涙が止まらなかったのを覚えてます。
 座席予約制・完全入れ替え制の劇場ですから、上映終了後はすぐに劇場を出ないといけないわけですが、しばらくは出たくなかった。

 映画ってこんなにすごかったっけ・・・

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 今日は作品の感想というより、作品を観てきて僕が考えたこと・・・というコンセプトでいこうと思います。
 長々しくなりますので、お時間があるときにでも。


 ~~~ 1. 永遠に繰り返される物語 ~~~

 現実と空想をすり合わせようと、エドワードが辿ってきた道を探るウィルは、スペクターという街に住むエドワードの旧友:ジェニーに会う。
 そこでジェニーに聞かされる話は、エドワードが歩んできた時系列とはチグハグな部分が多い。
 困惑するウィルに、ジェニーはこんな一言を放つ。
 
 「お父様の頭で考えるのよ」

 さて僕も、エドワードの頭で考えてみる。
 すると、この『ビッグフィッシュ』という作品は、オープニングとラストが繋がるお話であるということに気付いた。
 つまりは輪廻というものかな。

 オープニングは、街の伝説的な存在である怪魚、誰にも捕まえられない大きな魚の話から始まる。
 どんなエサをもってしても捕まえられず、ある日エドワードは、純金の婚約指輪をエサにすればどうかと思いつく。
 釣り上げたはいいものの、その魚に指輪を飲み込まれてしまうが、死闘(いや、そんなに壮絶ではないが)の末、指輪を取り戻す。
 この話は、釣り上げるのが困難である魚と、高嶺の花である人(妻:サンドラ)を掛けて、それらを手に入れるには指輪をあげるのが一番だというジョーク。
 またこの話は、ウィルが生まれた日に起こった事件という設定である。
 「この話はウケるんだ」という台詞から、恐らく最も語られてきた冒険譚であろう。

 ラストは、エドワードが今まで終ぞ語らなかった”エドワードの最後”の話を、ウィルに作らせ語らせて、幕を閉じる。
 ウィルが作った話のオチは、「父さんの本当の姿は、実は大きな魚だったんだ」というものである。

 この”大きな魚”にまつわる話は、エドワードがウィルに聞かせてきた幾千もの話の、おそらく原点であると僕は思います。
 つまりウィルの視点からみると、”エドワードの辿ってきた人生”の原点です。
 ウィルが語った”エドワードの最後”の話で、その原点は同時に、エドワードの終着点となったのです。

 そして怪魚となったエドワードは、やはり誰にも捕まえることは出来ず、誰かが指輪を河に放り込むまで、街の伝説として語られていく。
 ここで、映画のラストとオープニングが繋がるのです。

 ・・・・という風に、”大きな魚”にまつわる話は、永遠に繰り返され、語り継がれていくのですね。


 ~~~ 2. My Girl in the river... ~~~

 1節と少しリンクした話です。
 ウィルが語る”エドワードの最後”の話では、エドワードは妻サンドラに、純金の婚約指輪を託します。そこで放つ一言が、

 「My Girl in the river」

 このシーンの意味。
 これが長らくつかめなかったのですが、今回なんとなく掴めた気がします。

推測①: 
 エドワードは、指輪をエサに魚(♀)を釣り上げますが、指輪は飲み込まれ、闘争の末に取り戻す。
 自分が死ぬという時になり、その魚(Girl=サンドラ)に、あのとき力ずくで取り戻した指輪を渡す・・・という意味。

推測②:
 ウィルが語る話のオチは、「父さんは、本当は大きな魚だったんだ」。
 この魚は後に、誰も捕まえられない街の伝説となる(1節参照)。
 この魚を捕まえる唯一の方法は、指輪をエサにすること。
 そしてこの魚を誰かが捕まえたとき、新たな物語が紡がれていくのです。
 
 それを考えると、「誰かがこの指輪を使って、僕を捕まえてくれる日まで・・・」という意味で、サンドラに指輪を託したのかな。


 推測①は、台詞を意識した解釈。
 推測②は、指輪を託すという行為を意識した解釈。

 原作の方に、ヒントが隠されてたように思ったのですが、以前読んでからかなり経つので、内容をすっかり忘れてしまいました。
 このシーンの意味について考えたことがある方、ぜひご一報を。


~~~ 3. 御伽話に込められた真実 - 「The very Big Fish」~~~

 「You become what you always were. The very big fish. And that's how it happens.」

 ウィルが作りエドワードに聞かせる”エドワードの最後”の話。
 そのオチの部分です。直訳すれば、

 「とても大きな魚、つまり父さんが常にそうであったものになった。それが父さんに起こったこと」

 という感じになるのでしょうか。
 映像ではこの後、エドワードが魚に転身するところで話が終わります。
 視覚的な情報のみで捕らえるならば、1節で述べたエドワードの原点である”大きな魚”の話に掛けて、「あなたの最後は、あなたが今まで散々語ってきた”大きな魚”になりました」という具合ですね。

 さて、「Big Fish」とは”大きな魚”という意味ですが、実は「ホラ吹き」という意味もあるそうです。
 この意味を考えると、先の英文はもっと深い言い回しであることに気付きます。

 「あなたは、あなたが今まで散々人に語ってきた”ホラ(ジョーク)”になってしまいました」

 つまり、映画の最後でウィルのナレーションとして流れる「お話を語りすぎて、父さん自体が”お話”になってしまった」という台詞と繋がるわけです。
 あなたが死んでも、あなたは”お話”として生き続ける
 人に散々ジョークを語ってきたエドワードにとって、これほど素晴らしい最後は無かったのではないだろうか。


 思考は巡って。もう一つの解釈。

 子供の頃、誰でも御伽話を聞かされたことはあると思います。
 あれは、何の意味があるのでしょうか。

 御伽話やジョークの根底には、読む人に対して作者が込めた思いや教訓が眠っていると思います。
 例えば児童書の分野ではあまりにも有名であるロアルド・ダール。その著書の『チャーリーとチョコレート工場』は、「良い子は報われる」というその一言が根底にあり、それを伝えるためウンパ・ルンパの楽しげ歌や、奇人ウィリー・ウォンカのへんてこな発言で盛り上げます。
 絵本や児童書には、まず楽しさがある。その楽しさが頭に残り、後々、その本に込められた本当の意味がわかってきます

 エドワードが語る話・ジョークも、同じ部分があると思います。
 一度聞いた限りではその話の楽しさが印象的ですが、エドワードの話の中には実は、エドワードという存在の本質が沢山散りばめられています。 
 
 今までメチャクチャだと思っていたお話。でもエドワードが語るジョークの中に、エドワードの本質が込められている。真実をそのまま伝えることだけが、良い方法とは限らない。
 エドワードの死期が迫り、空想と現実を摺り合わせていたウィルは、最後にこのことに気付いたのです。

 エドワードがジョークに徹した意味・精神。
 最後の「The very Big Fish(この大ホラ吹きめ)」には、そういうことを理解したウィルの気持ちが込められているのだと思います。

-------------------------- まとめ -------------------------------

 以上。

 
 もう何度目になるかわからない今回の鑑賞ですが、実を言うと、今までこの作品に対して、ちゃんと文章化したことってないのですよね。
 何故かと聞かれるとわからないのですけど、スティーブン・キングの言葉を借りれば、

 「頭の中で考えているときは無限に思えることでも、いざ口にしてしまうと、実物大の広がりしかなくなってしまう」

 というのがあったからかもしれません。
 ただ今回文章化することによって、整理整頓が出来たようにも思います。
 

 映画の最後、ウィルのナレーションで流れるこんな一言。

 「聞きすぎたジョークは、時が経てばまた笑える」

 この作品は、感動的で暖かいという第一印象があった。
 でも時が過ぎ、何度か観ているうちに、色々な意味が込められていることに気付く。
 (もしくは、色々な解釈が出来ることに気付く)

 『Big Fish』という、ティムバートンが放った”盛大なるホラ話”(「The very Big fish」)。
 僕はまた、何かの節目にこの作品を観るのだと思います。



 最後まで読んでくださった方、長々とお付き合いありがとうございました♪

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