2011年11月20日日曜日

雑記:相変わらず、愛変わらず〜ブログ3周年のご挨拶〜

さて、2011年も残りわずかとなってきたところ。
 久々にこのブログを確認してみると(管理人がそれでいいのかというのは置いておいて)、作成した記事数が15件という、過去最低数の現状に、反省の色を隠せない私梅太でございます。

 これはいかんと思いつつ、でもこれから何十件も書けるほど余裕があるわけでもないので、先ほど頑張って、二ヶ月程考えあぐねていて一つの区切りを付けた「life in a day」という作品の感想を書きました。そして余りにもこのブログから離れすぎていたため、開設3周年(2008年9月1日に開設)をとっくに過ぎていることに気づいてしまいました。
 例年であれば記念のトップ画像を作成するところなのですが、ちょっと余裕がないため、今は置いておきます。

 では管理人がお互い、映画を見ていないのかと言われると決してそうではありません。ゲンさんは相変わらず沢山の作品を見ていますし、律儀にtwitterで感想を残している...はずです。(すいません、最近twitter覗いてないので想像でお送りしました)。
 また私梅太に関して言えば、びっくりする程劇場へ通っておりません。でも映画を見ていないかと言われるとそうではなく、チャップリン作品に触れるという今年掲げていた宿題をしたり、「super8」上映にあたり、スピルバーグの長編作品を全て見返してみたりなどしていました。映画に対する愛は変わりを見せず、むしろ他に様々な体験をして(外部ブログにて、文章に真剣に向き合ってみたりとか)、”作品”というものに対する取り組み方が良い方向に変わってきたように思います。

 そして二人でたまに会うと、やはり映画の話をしてしまうのです。大丈夫です、お互いまだ映画は好きです。(いや、だれも心配していないかな)

 これからこのブログをどう更新していくか、それはその内、話しておかなければいけないなと思いつつも、とりあえず今は、無事に3周年を迎えられたことに対し、読者の皆様へは本当に感謝しております。
 よければこれからも、少しだけでも覗いていただけるとありがたく思います。

 簡易的で間に合わせ的な文章で申し訳ありませんが、来週はゲンさんも僕も記念日(誕生日!)を迎えてしまいますから、その前に一つ、区切りを付けたかったのです。


 では皆様、素敵な映画ライフを。

梅太@劇場 一日ってなんだろう〜life in a day〜

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします。

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 11月3日は、今から約50年前に、スプートニク2号が打ち上げられ、人間よりも一足早く、犬が宇宙へと旅だった。その事実を知ったのは、村上春樹の小説「スプートニクの恋人」を読んだ時だった。勤労感謝の日とか、秋分の日とか、それが何月何日かはパッと言えないけれど、物語の内容も相まって、11月3日という日は、僕の記憶に残ることになった。手帳にも、チェックをつけた。
 来る11月3日。手帳を広げてその日が何の日か思い出して、改めて「スプートニクの恋人」を読み始めた。世界の内、数人かは、きっとスプートニク号のことを思い出したのだろうか、それはもちろん分からない。

 映画や小説を読んでいると、作者は物語の中で、何故この日を舞台にしたのだろうと思う時がある。「500日のサマー」では、主人公とヒロインが出会うのは1月8日であるし、「アメリ」では、アメリが生まれたのは9月3日ということだ。スプートニク号については、完成時期とか天候とかそういうのが重なって11月3日に打ち上げたということなのだろうが、物語の場合は、作者は自由に日にちを選ぶことができる。一年は365日あるわけだし、年号については、紀元後は2000幾通りの選び方がある。そんな中、ある一日を選ぶというのはなかなか難しい作業のような気がする。
 選ばれたその日には、何か意味があるようで、実際はそんなに意味はないかもしれなくて。
 
 ここで、ある一日に焦点を当ててみる。2010年の7月24日。
 僕は何をしていただろう。

 夏の盛りのこの日は、土曜日であったそうだ。天気は晴れ、最高気温は35℃、最低気温27℃。暑い暑い一日だったのだろう。曜日は昨年のカレンダーを見ればいいし、天候はインターネットで簡単に調べられる。

 では、その日、僕は具体的に何をしていたのだろう。

 多分、昨年の手帳を見ればすぐに分かるはずだ。しかしパッとは思い出せない。ということは、ありふれた一日だったのかもしれない。では特別な日であったら覚えていたか・・・と考えてみても、余程のことでなければ覚えていないだろう。

 では、一日ってなんだろう。
 
 「LIFE IN A DAY」という作品は、2010年7月24日の出来事を描く。僕はこの日、何かをしていて、でも他の人は、その人の一日を送っていた。それを意識することは多分できない。僕はその人ではないから。しかしこの作品は、沢山の国の、沢山の人の、この2010年7月24日という日の生活を見せてくれる。僕が僕である以上、絶対に覗けなかった他の人の一日の生活。

 この日もいつも通り、日が上る前の一番暗い時間があった。日が昇り、傾き、沈んだ。
 この日が始まりになった人もいた。
 この日が終わりになった人もいた。
 何かを成し遂げた人もいた。
 何かに感謝を捧げた人もいた。
 人が聞いたら眉をひそめそうな差別的な発言をする人もいたし、自分を肯定してくれる人がいることを再認識した人もいた。
 良いことをし、悪いことをし、人が傷つき、死ぬこともあった。そういう世俗とはまったく無関係(無関心)の人もいた。
 たった24時間の間でも沢山の(ちんけな言葉かも知れないけど、本当に沢山の)出来事があって、当たり前かもしれないけれど、綺麗事だけでは済まされないそんな沢山の出来事を、すべて把握しきれるほど、一人の人間の容量というのは大きなものではない。
 そう、一人の人間に出来ることは決して大きくない、ということを、また自分が人に意見できる立場にあるのかどうかということを、私たちはたまに忘れてしまうことがある。特にこの映画の様に、様々な人の意見を聞いていると、自分の価値観にあわないものも当然あって、「それは違うんじゃないか」なんて言いたくなる時もある。
 でも最近思うのは、僕はそういった”自分の絶対的な意見”というのをあまり持っていないかなとも思い始めている。先日、とある先輩から言われた一言がきっかけで考え始めたのだけれど(そのおかげで、最近我武者羅なのだけれど)、そういうものを持ってない自分が、相手の意見が違うということを、はっきりと言えるのだろうか、そんな風に思い始めている。
 そして一人の人間に出来ることの大きさ、という事に関して言えば、この映画では様々な人の生活が除けて、余分な映像処理をしていない分、確かな手触りをもってそこに映し出されて、今そこで起こっているような、そんな生々しさを伴っているのだけれど、でも冷静になってみると、その世界には手は届かないことに気付く。スクリーンの向こう側で困っている人がいても、手を差し述べることはできない。

 2010年7月24日が、全く持って普通の日であったという女の子の言葉が残響の様に頭に響きながら、エンドロールを迎えるのだが、そこで出てくる「Mind your own bussiness」という言葉。字幕では「他人の事に口出しするな」と、散々他人の生活を見せてきて、最後に突き放された様な感覚に陥るわけだけれど、これは実は、とても優しい言葉なのだと後で思った。
 自分の限界を超えた何かをしようとすると、もちろんそれは自分の成長に繋がる部分もあるわけだけれど、事が大きすぎて、仕上げが雑になって、かえって人に迷惑をかけてしまうこともある。先に述べたとおり、一人に出来る事は限られていて、一人が把握できる世界(人)なんて、全人口からしたらたかがしれている。だからまずは、自を固めてみること、自分の持っている世界の中で、何が出来て何が出来ないかを把握すること、そして人の手を借りれば、更にこれくらいのことが出来るということ、外部の手を借りればもっと...そういうものを、しっかりと固めていきたいと最近思い始めている。

 さて僕は、かなりの頻度で自分の容量というものを忘れてしまう。人から頼まれ事をされると、詳細を聞く前にまず「はい」という。やってみると思わぬ深みにはまってしまう場合もあるが、でも新しい経験が出来るから、僕は特に気にしていなかったし、ありがとうと言ってもらえるのはやはり嬉しい。しかし今年にこれまでに、僕の身に起こった様々な出来事と、先日とある人に言われた一言によって、ちょっと(こういう言い方はしたくはないのだけれど)人に気を使っている場合ではないなと感じ始め、今そこを必死に、何とかしようとしている最中である。何とかなるかは今のところわからない。でもこれは必要な作業なのだと、考えた末の行動である。それでも、人に声をかけられたら、まず話を聞くという姿勢は、絶対に絶対に、忘れないけれど、でも今の自分に無理だと感じたら、もしかしたら断ってしまうかも知れない。そこは許してほしい。かも。

 さて、先に書いた「では、一日ってなんだろう」という問いかけに対して、僕が思うに、大切な一日、特別な一日というのは確かにあって、でも過ぎ去ったその一日を、四六時中覚えているわけでもない。だから、その一日だけで、人生に何か意味が成されるということは無いのだと思う。劇中でも登場するが、プロポーズをしたその日、めでたく受諾されたとして、でもその本当の意味は、その後の生活によって形成されていく。
 この作品は、ある一日を切り取ったものだ。物事が意味を成していく、その過程の中の一日を組み合わせてみても、それは結局過程の寄り集めでしかなく、だから明確な結論がつけられずに締めくくられる。しかし明確な結論がないからこそ、各々の「一日」の考え方が生まれていく。この映画をきっかけにして、自分の中で「一日」がどういうものか、考えてみるのもいいかも知れない。もしかしたら、これからの過ごし方が、少し変わっていくかも知れない。

2011年6月24日金曜日

梅太@ 劇場:スーパー8 ~危険を冒すこと、それが冒険~

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 子供の頃は、通いなれたエリアでさえ、知らない場所は沢山あった。
 あの角の先には何があるのだろう。この狭い路地を抜けると何があるんだろう。自分の住む7丁目から出るのも、ちょっとした緊張を伴った。その緊張は少しの怖さに変わり、その怖さはワクワクに変わった。好奇心、探求心。それに抗える子供なんて、なかなかいない。
 知らない場所で得られる物は、新しい景色、勝手の知らない道。そして無事に帰れるかどうか、という不安。しかし次に訪れる時は、そこは見知った町並み。精神的に安全なエリアとなる。
 いくつかの恐怖と、「ここまでは行動しても安全だ」という加減の見極め、それを自然と繰り返しながら、私たちは年をとっていく。

 子供の頃は、知らないことが沢山あった。
 学校で勉強すること、それも含まれるけれど、例えば友人との付き合いにおいても、好きな人苦手な人、様々な人がいて、その感情をストレートに出してしまうが故に、相手を傷つけてしまう場合もある。また人との関係には、出会いもあれば別れもあって、初めて体験するそれらは、ただ過ぎていくイベントであるけれど、別れる事に寂しさを覚え始めると、人との体験を何より大切にするようになるり、出会いの楽しさを覚えれば、いつでもそれを求めるようになる。家族関係においても、親の言うことを聞かず、ダダをこねて困らせてしまったり。ふとした瞬間に、親の優しさを知ってしまったり。
 「どうしたら相手に不快な思いをさせずに済むんだろう」「どうしたら相手に喜んでもらえるんだろう」という自問自答を自然に繰り返しながら、私たちは年をとっていく。

 思えば大人になると言うことは、その加減を知っていく事なのだと思う。それが全てというわけでなく、一つの側面として。
 しかしいつしか、加減を知りすぎて、そのエリアから外を見なくなる人もいる。もちろんそれは悪いことではない。危険なことはやはり危険だから。危険を冒して身を滅ぼすならば、自分のエリアにいた方が安心できるから。

 「スーパー8」で描かれる主人公は、自分のエリアを忠実に守る少年であると感じた。理解してもらえる幼なじみがいて、優しくしてくれる近所のおじさん達がいて。趣味を共にする仲間がいて。母を失い、その悲しみが時に自分に陰を落としても誰も文句は言わない。そして自分を肯定してくれる女の子との出会いがあって、このまま世界が進んでいくかの様に思えた。そんな中、突如舞い込んだ異分子。正体不明のその存在に、自分の生活は次第に脅かされていく。心の寄り処であった母の面影も、そのドタバタの中では時に忘れてしまうこともある。

 それは肉体的にも精神的にも、今まで過ごしていた自分のエリアの、確かに外の出来事だ。その体験を通じ、友に頼るだけが生きる道でなく、悲しみに浸るだけが、母を想うことではないと悟る。外に出ることで、危険を冒すことで、彼は外の世界を知り、解決への道が一辺倒でないことを知る。

 冒険というのは、どんな種類の物であれ、いつの時代のものであれ、無事にそれを終えられたとき、その人を一回り成長させる物なのだ。どう成長したかは、もう少し大人に成ってみないとわからないけれど。

2011年5月28日土曜日

梅太@ コラボでシネマ:運命と恋

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 朝、目覚ましがなった時、その瞬間に起きるか、もう5分寝るか。朝ご飯は和食と洋食どちらにしようか。
 家を出ると空は曇りで、傘を持っていくかいかないか。
 この会議の決断でyesと答えるか否か。
 夜、本を読んでいて、キリの良いところまで読むか、明日のことを考えて早めに寝るか。
 人一人の人生は幾つもの選択の上に成り立っている。
 そして生きている以上、人との関わり合いは必ず発生していて、相手の人生の中にも幾つもの選択があって、つまりは自分の選択に相手の選択が複雑に絡み合いながら、人生は続いていく。
 
 ふと振り返り、自分が歩んできた道を眺めると、その道には沢山の分岐点があり、それを見てしまうと「あの時こうしていれば」と、人間はどうしても”if”を考えてしまう。あの時別の道を選んでいれば、確かに別の人生があったはずで、それを想像せずにはいられない。
 そして前を見ると、そこに道はなく、これからも沢山の”if”が待ち受けていることだろう。
 しかし、その”if”が既に、誰かに決められていたのなら。自分の気付かぬ内に既に、決められたレールの上を歩んでいたとしたら・・・

 それが、「アジャストメント」という作品。
 この作品の面白いところは「調整局」という存在で、そこに所属する人達は、決められた道から人間がはずれないよう軌道修正をする役割を担っている。先に書いたように、これから歩んでいく道には大小様々な”if”があって、ちょっとしたきっかけで別の道に迷い込んでしまうことだってある。迷い込む前に「こっちだよ」と呼びかけたり、迷い込んでしまった場合は何とかして元の道へ戻る選択肢を構築する。つまり人生というのはそれだけ可能性に満ちているという事で、それを管理しなければいけない調整局の人達には、本当にご苦労様と言ってあげたい。いや、そこではないか。
 主人公はある出来事によって、「既に書かれた筋書き」と、「調整局」の存在を知ってしまう。もちろん回りはそんなことはお構いなしに悠々と生きている。ここがミソだと思いました。気付いてしまって、その人に野心というかそういうものがあったとしたら、抗いたくなるのが人間の性である。心の底から愛する人を見つけ、その人と白紙の人生(unwritten life)を求める主人公と、その出会いは起こってはいけない出来事だったと、調整し修正しようとようとする局。その駆け引きはとてもスリリングであった。

 調整局は日々、人間の道を観察しているが、雨が降るとその能力(?)が使えないという設定は、考えを巡らすと面白い要素だと思った。
 雨が一滴、ポツンと地面に落ちる。それは偶然その場所に落ちたかとそう思うけれど、実は雨はその滴の質量、その日の風向き、その他色々の因子が混ざり合った結果、ある場所に落ちる。一滴が集まり、水流を作る。水の流れも、地面の起伏など沢山の要因でその方向性を決める。つまり雨にまつわる一連の出来事も沢山の”if”があって、恐らくそれが、人間の観察を阻害するのだろう。
 人の人生と、水の流れ。この二つにはどこか共通する物があるのだなと気付かされた。

 そして人生と水の関連性というところで、僕にはもう一つ、思い浮かぶ作品があった。それが「君がぼくを見つけた日」である。
 「君がぼくを見つけた日」は、遺伝子異常でタイムトラベルをしてしまう男と、そんな人に恋をしてしまったある女性のお話。とてもロマンチックな作品だけれど、僕はこの作品については、恋愛的な要素よりも、この作品独自のタイムトラベルの設定に、より惹かれた。(僕はSFが大好きでなのです)
 男はいつでも好きな時代へいけるというわけではない。また自分が関わっていない時代には飛んでいけない。自分の人生の、重要な出来事に惹かれ、その時間へ飛んでいく。しかしその時間に干渉してみると、確かに少しは変化があるかもしれないが、大きな意味で、人生の流れが変わるわけではない。例えば幼少のころ母親を交通事故で亡くした男は、その時間に飛んだとき、何とか阻止しようといつも試みるが、どうあっても防ぐことはできない。愛する人を見つけ、結婚し、いつまでも幸せに暮らしたいと願うが、いつの時間かに起こってしまう自分の事故死を防ぐことはできない。
 例えば川に小石を投げ入れる。大きな大きな川に。その石はポチャンと、小さな波紋を起こすだろう。しかしそれによって川の流れが変わるわけでは決してない。海の入り口、川の終わりへ向かってただただ流れていく。川はその人の歩む道、小石はタイムトラベルをする男。小石程度では流れは、運命は変わることなく、ひたすら終わりへ向かって突き進む。
 オープニングシークエンスの水の表現があるが故に、この作品を見たときも、時間と人生とそして水の関連性を考えずにはいられなくて、この度「アジャストメント」を見たとき、再びその思考が巡った。
 そしてこの二作品で描かれる恋は、対照的であるように感じた。「アジャストメント」は運命に抗う恋、「君がぼくをみつけた日」はどうあっても運命に抗えなかった恋。なるほど、対照的。ただ救いとしては、どちらの恋も、それぞれの形で成就しているということだ。「ブルー・バレンタイン」を見た後だと、救いのある物語というのは心が明るくなるものだと切に感じる。



●この記事で紹介したもの

・「ベンジャミンバトン 数奇な人生」
・「アジャストメント」
・「君がぼくを見つけた日」
・「ブルー・バレンタイン」

 

2011年5月22日日曜日

梅太@ 劇場:メアリー&マックス

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 「アフターダーク」という村上春樹の小説は、主人公の女の子が渋谷のファミレスで深夜に読書をしていると、ある男がいきなり相席してきて、その男と関わったが故に多少のいざこざに巻き込まれるのだけれど、結果的にはとりとめて何も起こらず夜が明けるという作品。
 筋書きだけ読んでも特に興味は惹かれないかもしれないし、内容としても大きなスペクタクルがあるわけでもないけれど、不思議とこの作品は僕の心に引っかかる。

 この物語の中で描かれる出会いは、主人公の女の子と相席した男を別にすると、ほとんどが一過性のものになる。ラブホの店長、暴力を振るわれた少女、コンビニに落ちていた鳴り続ける携帯電話。それぞれの視点に立てば、各々それなりの結末を迎えるのだが、主人公目線に立つと、実は何も解決はしていない。ふとしたきっかけで出会って、通り過ぎるだけのものである。
 ただこの物語を自分の生活に置き換えてみたとき、僕の普段の生活も、気付かぬ内に出会いと別れを繰り返しているということに思い至った。
 例えば電車に乗っていて、自分の隣に座った人がいる。その人にはその人の世界があって、でもたまたま何かのご縁で、とあるタイミングで僕の隣に座る。一瞬、世界が交わる。しかし何もなく、それぞれの道へ向かって歩き始め、世界は離れていく。人でなくても良い。花でも食べ物でも景色でもゴミでも、生きている内は何かに出会い、そして分かれる。

 「メアリー&マックス」という作品は、オーストラリアに住む内公的な少女が郵便局で親を待つ間、暇を持て余して住所録を眺め、「そうだ、この人に手紙を送ってみよう」と思い立ち、行動に移す。その手紙はニューヨークの、これまた余り外向的とは言えない中年男性の元に届き、二人の文通が始まって・・・というものだ。
 この二人の出会いは全て、ふとした思い立ちの積み重ねで成り立っている。
 親と一緒に郵便局に行く。暇を持て余して住所録を読む。ニューヨークって不思議な名前の人が多いねと思う。そうだ、手紙を送ろうとなる。少女の道が、見知らぬ誰かの道と交わろうと、行く先をじわりじわりと変えている。 相手先の中年男性が、「なんだこの手紙は!?」と突っぱねてしまえば、道は交わることはなかった。だが手紙の内容が男の琴線に触れ、少女の好奇心に答えようと、お返事を返す。二つの道は交差を始めた。

 出会ったものに興味を持ち始めると、自分と相手の世界は交差を始め、自分にとって知らなかった道が見えてくる。その交わった道について、進んでいる内はその出会いが自分たちにもたらした大きな影響には気付けないけれど、ふと立ち止まり振り返ってみると、出会う前に歩んでいた道の延長線を歩いているだけでは一生気付けなかったことを教えてくれたりする。全部が良い影響とも限らない。悪いことばかりでもない。また、与えてくれた影響を見落としてしまうこともままある。それでも出会いというのはそれほどに大きなものであって、「へぇ」と一瞥して過ぎ去って行かせるには、余りにも惜しいことなのだ。

 見えるもの・出会うもの全てと付き合うことは、一人の人間のキャパシティとしては難しいことだけれど、でも興味を持ったものとは出来るだけ、付き合いを深めていきたいと思うし、また相手にも、自分に対して興味を少しでも持ってくれたなら、それはとても嬉しいことだと思う。

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 「メアリー&マックス」について、その内容にはほとんど触れておらず、また鑑賞された皆様方においては、全く違った印象を与えられていると思う。
 これは事実を元にした作品で、しかしクレイアニメーションで描かれているが故に、どこか寓話的な雰囲気が流れている。欠点を受け入れて生きていくこと、そんなメッセージを伝える上で、アニメを用いてダイレクトさをグッとと抑えることで、かえって想像の幅は広がっていった。思いを伝えるための表現手法の選定というのはとても難しいと思うが、本作の様にガチっと合ってしまうと、その物語の人に及ぼす影響の可能性は、無限に広がる様に思う。僕にとってこの作品は、交わる二つの道というのを見つめるのに、とても良い影響を与えてくれた。

 良い出会いでした。

2011年5月5日木曜日

梅太@ 劇場:『スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 エドガー・ライト監督最新作『スコット・ピルグリムvs.邪悪な元カレ軍団
 ラモーナ風に訂正するなら邪悪な元”恋人”軍団。 

 ストーリーは。
 バンドのベースを担当する青年:スコット・ピルグリムは、ある日出会った赤毛の女の子:ラモーナに恋をする。彼女をゲットしたい・・・猛烈にアタックを続けるスコットには、しかし大きな壁が立ちふさがる。
 「わたしと付き合いたければ、7人の元カレを倒さなければいけないの」
 スコットは元カレを倒し、ラモーナをゲットする事ができるのか。


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 オマージュ作品とは?

 『魔法にかけられて』というディズニーの映画を見てから、オマージュ作品というジャンルの立ち位置を考えることが多くなった。
 そういう作品を作る人というのは、元となる映画(に限らずだけど)が好きで好きでたまらない!という人で、その思いは、元ネタを知らない・興味がない人をも巻き込み、その良さを伝えてくれることがある。
 『魔法にかけられて』は、ディズニーの世界の住人が、現代のNYに放り込まれたとき、いかにとんちな行動を起こすのか・・・というコンセプトが面白く、しかし確実に異なる二つの世界:現実世界と理想郷を比較することで、ディズニーが昔から作り上げたかった世界とは何だったのかを教えてくれ、ディズニー・プリンセスというジャンルに特に興味の無かった22歳の男性が、劇場でボロボロ泣くという事態に陥ったわけである。

 さて、この『スコット・ピルグリム』という作品は随所にTVゲームをオマージュしたシーンが見受けられる。
 本作を見た後、僕はTVゲームとは一体何なのだろうかというのを考えた。
 今回はRPGに焦点を絞ることにする。

 RPG:ロールプレイングゲームは、ゲーム内で割り当てられたキャラクターを操作し、町の人と接したり敵を倒して経験値を積み上げながら、与えられた課題をクリアしていく。課題をクリアすることでまた経験値を得、ラスボスを倒して終局を迎える。
 すでにそれが体系化されすぎて、ゲームとはそういう物だと割り切ってしまいがちであるけれど、ゲームとはそもそも、現実に起こる出来事の可視化によって生まれた物なのではないか・・ちょっと考えてみる。
 
 現実で、僕は誰かと出会う。話す。
 仕事をして、知識を得る。技術を得る。
 でも「これをして得た経験」とは、具体的な数値として与えられるわけではない。それを可視化したものが、ゲームで言うところの経験値というものだ。
 強い敵であればあるほど、得られる経験値が高い。
 現実に置き換えれば、大変なプロジェクトを達成させたとき、その人はとても大きな経験をしたことになる。それらの経験は、僕たちを次へのステップへ押し上げてくれる。これがレベルアップというやつだ。
 ゲームの要素を一つ一つ紐解くと、実は現実世界と密接に関係している物だと言うことが見えてくる。
 (他人の家のタンスの中から10ギル出てくる・・というのは、どう考えるべきか悩むところだけど)

 もちろん、可視化する事で行為が頭の中で単純化されてしまうという部分もある。
 現実世界はゲームとは違うのよ!と、よくよく親に怒られたりもするが、それはそういうことで。様々な出来事を通じて、少なからず経験値を得てはいるのだけれど、それが具体的に報酬として見えてこないことにイラだってしまう人もいる。

 本作では7人の元カレを倒すことで経験値を得、スコットはレベルアップしていく。いかにもゲーム的。
 けれど現実では、段階こそ明確には見えないけれど、実際何かを達成させるまでには知らないうちに僕たちは段階を踏み、一つ一つを経験して、成長していく。
 現実で起こる出来事:意中の女性をゲットするまでという道のりを、ゲームと絡め合わせることで、ゲームという物が現実世界ではどういう立ち位置にあるのかということを考えさせてくれた。
 
 小さな経験:”何か”を見逃さないこと。

 僕がこの作品で一番見事だと思ったのは終盤、ラスボスにやられてしまい、死の世界(?)で自分を振り返るシーンだ。
 実力としてはラスボスと対等に渡り合える程の力を得ているスコット。ラスボスと戦っている最中に、スコットの元カノが現れ、ラモーナに対しケンカをふっかける。この泥棒ネコ!と。そして女性二人のキャットファイトが始まるのだが、このときラモーナは事情(実は自分と二股をかけられていた)を知らない。ケンカの仲裁に入り真相を打ち明けるスコットは、同時に二人の信頼を失い、戸惑い、一瞬の隙を突かれ、ラスボスの前に倒れる。
 そして場面は代わり、死の世界で、スコットは自分の行動を振り返り、こう言う。

 「あ、何かを学んだ気がする。あ~、生きてればやりなおせるのにな~」

 と。
 僕がこの言葉のどこに惹かれたかと言えば、”何か”という非常に曖昧な表現だ。
 その”何か”具体化させることが、人間が成長していく過程であると思うし、それを具体化させ、自分のものとする行為を積むことで、大人へ近づいていく。
 この”何か”という表現は、どこか子供の持つ曖昧さを感じさせたけれど、形作られていないふわふわした考えを見逃さず、自分の中で形にしていくことが、人間の成長過程では大切なものなのではないかと思う。


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 以前『平成ガメラ三部作』のオールナイト上映での舞台挨拶で特技監督の樋口さんが『ダークナイト』と本作を比較していた。すごく意外な比較であって、でもその時僕の中には引っかかるものがあって、以来色々と考えていた。
 どこまでもリアルに描くことに徹する『ダークナイト』。
 どこまでもリアルを無視する『スコピル』。
 メッセージの重量感が評価された『ダークナイト』は、後の映画に確かに影響を与えた。物事を真面目に語ること。ただその真面目さ・リアルさ・完璧さ故に、僕の中では実は、今一歩両手を広げて最高の作品といえない作品であったわけで。
 そんな作品からすると、かなり軽いノリで見れてしまう『スコピル』は、ちょっと軽視されてしまう部分もあるかもしれないが、軽いノリの中で何か重要なものが潜んでいる。絵本の世界とか、そういうのに近い。

 しかし何か表現したい思いというのはそれぞれあって、それをどう形にするか、という違いでしかない。
 どちらが正しくてという問題ではなくて、ただ、どちらも一つの表現であるということ、同じ土台で比較しても、何ら問題のないこと、ということを、樋口さんは言いたかったのではないかと、過大解釈をしている。

 映画ってこれでいいんだ。
 ということを『スコピル』を見て感じる。

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 予告編を観たときからずっと、どんな作品になるのだろうか・・・というのが気になって気になって仕方なかった。
 同監督の前2作『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』は、全編に散りばめられた幾多の映画へのオマージュに彩られ、使い古されたネタも、加工次第でこんなにも面白くなるのかとただただ笑わせてもらったけれど、それ以上でもなければそれ以下ではなかった。
 いやそれは悪い意味で言っているわけでなく、”純コメディ””純パロディ”としての立ち位置を追求していく監督の姿勢はとても好きで、それこそ映画だろう、と胸が熱くなるシーンが沢山あった。

 本作も、同じである。
 が、ぶっとび過ぎてもはや制御不能な中に、ものすごくうまい部分があったように思う。それはマイケル・セラのキャラクター性と、全国のマイケル・セラ・・いや、全国の青年が迎える恋の場面と、エドガー・ライトの語り口が、絶妙にマッチして生まれたように思う。
 でもエドガー・ライトはどこまで意識してこれを作っているかは分からない。ただハチャメチャにこういうのが作りたかった・・・というのが、実のところなのだと思う。

 その純粋な思いに、本作でもまた胸を熱くし、泣いてしまった。


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 長々と書いてしまい、なんだか重苦しい雰囲気な映画ととられてしまうかもしれないけれど、以下に掲載した予告編の様に、実際のところハチャメチャな映画ですので、劇場で見て、みんなでガハガハ笑ってほしい、この春最高にオススメしたい作品です。

 本年一位も嘘でないかも。


 ↓↓予告編↓↓

2011年4月24日日曜日

梅太@ コラボでシネマ:How do you mesure a year?

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 昨年『ラブリー・ボーン』や『オー・マイ・ゴースト』(日本未公開の超大傑作オススメ映画)を観て、生者と死者の関係というものを、見つめる機会が多くなった。
 勿論現実問題として、死を迎えれば、当人はその時点でこの世と決別するから、その関係がどうこうなんてものはないのだけれど、フィクションとして置き換えたとき、それを考えることが出来るし、それは今後の生き方すら変えるかもしれない、それが物語というものの力だと思うわけで。
 考え方は人それぞれでいいと思うけれど、考えることは大事だと思う。

 さて、今回鑑賞した『THE GREATEST』という映画。

 この作品のストーリーは、ローズ(今世界でもっともGREATESTな女優:キャリー・マリガン)とベネット(今もっともKICK-ASSな俳優:アーロン・ジョンソン)は、ドライブ中に交通事故に遭う。ベネットは死に、ローズは幸い軽傷で済んだ。
 ベネットの死に嘆く父:アレン(元スパイ、ピアース・ブロスナン)と、母:グレイス(王座を奪われたくないスーザン・サランドン)の元を訪ねたローズは、二人にある事実を伝えるのだが・・・


 さて。
 『ラブリー・ボーン』では、死者の存在を忘れてもらうこと、それが残された者の呪縛を解き放つことになる。
 『オー・マイ・ゴースト』では、死者をこの世に縛っているのは、死者の未練でなく、生者の死者に対する未練である。
 その点を、個人的には読みとっている。作品自体に似通った点があったのか、僕が繋ぎ合わせただけなのか。何にせよ、この二作品は僕に死生観というものを考えさせるきっかけになった。

 さて。
 ここまで言っておいてなんだが、別にアーロン・ジョンソンがゴーストになってNYで恋をするわけでもない。彼は死んだままだ。が、突然の死というのは、生きている者をその事実に縛り付ける。
 事故に遭い、病院に運ばれたベネットは死ぬ前に17分間だけ意識を取り戻していた。特に両親を縛り付けているものは、「その17分の間、側にいてやれなかった」こと。きっと助けを求めていたに違いない、不安だったに違いない、そんな場面に、親なのに立ち会ってやれなかった・・・ある種の責任感のような者が、アレンとグレイスを縛り付け、ストレスを与えていた。
 ここに、先に挙げた2作と共通する部分があるように感じた。
 Dead man tell no tail.死人に口無しというけれど、何も語ってくれない故、生者の思いは肥大化していき、まるで呪いのようにふりかかる。

 本作のキーパーソンは、ベネットの最後に立ち会った人物だ。彼の車とベネットの車が衝突したことが事故の発端で、彼もまた、怪我の治療の為病院に運ばれたが、ベネットの最後を看取った時から昏睡状態となっていた。
 グレイスは何とか、ベネットの死の全貌について聞き出そうと足蹴く病院へ運び、やっと、意識が戻った彼から聞き出した、ある事実。

 その男が言った言葉は、大したことではない。
 「確かに彼は痛がっていたかもしれない」
 「不安を感じてたかもしれない」
 そして、
 「最後に、少女の名前を呼んでいた、彼女の安否を確認したがっていた」
 それを聞いた瞬間、グレイスを縛っていたものは静かに崩れていった。また、家族を纏めなければいけないと常に気を張っていたアレンも、それを聞いた瞬間に糸が緩み、泣き崩れた。
 ベネットが死の間際、必死に求めたのは親の救いではなかった。
 親としては、救いを求める子の元へ飛んで”いかねば”ならない・・・その観念が両親を縛っていたが、実際ベネットが求めていたのは我々ではなかったんだ。

 その結論に至った二人は、ローズと、そしてベネットの子を、優しく迎える決意をする。

 生者と死者の関係。
 本作を含め、僕が昨年から観てきた作品群には、何か共通する部分があった。
 その考えを通じて、僕がこれからどう生きていくかというのは、また別の話。

▼▼▼▼▼▼

 と、こんな風に書くとなんだか重い作品の様に響いてしまうが、そうではない。
 この作品はとてもニクく、ウマい演出で幕を閉じ、爽やかな印象の残る素晴らしい作品であった。
 昨年観賞したものでいうと、『ナイト・ビフォア・ウェディング』を観たときと似たような、「やられた!」という快感、そして嬉しくなる涙。
 たまらなかった。

 ここで効いてくるのが、劇中に出てくるアレンのparty trick:宴会芸だ。
 アレンは数字に強く、ある物事が積み重ねてきた時間を、様々な単位で一瞬で計算できるという技を持っている。
 たとえば君が18歳で、~年~月~日に生まれたとしたら、それから今日まで~日、~時間、~分過ごしたことになる・・・。
 僕はこの手の言い換えが好きだ。
 こんな歌がどこかであったなと振り返ると、ミュージカル映画『RENT』の『SEASONS OF LOVE』だ。

 
 
 How do you mesure a year?
 Daylights? Sunset? Midnight's cup of coffee?
 (夜明け、日没、深夜のコーヒーの数、どういう風に、一年を数えますか?)

 一年、と言われると、始まったときは長そうで、でも終わってみると短くて、そんな感じで年をとっていく。
 あっという間に過ぎる年月を、積み重ねてきた年月を、例えば分単位で数えてみると、~万という単位になる。同じ意味なのだけれど、とても長い時間を過ごしてきたのだなと思える。そう思えると、自分が生きてきた時間の重みが感じられる。

 アレンのこの宴会芸は、確かに物語のオマケ、それこそグリコのおまけ並に、さりげなく登場するだけなのだが、ラストシーンと、それを観たあとでの劇中の数シーンを繋ぎ会わせていくと、この芸はものすごく重要であることに気づかされた。
 
 ラストシーンの爽やかさと、映画的演出の素晴らしさ、劇場で観ていたら泣いていたと思う。


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 輸入版ということで、ツイッターでは調子に乗って英語で感想をつぶやいてみたが、結局のところキャリー・マリガンのことにしか触れていなかったので、ここではある程度真面目に書いてみましたが、言ってしまえば極論キャリー・マリガンということで、本作でも魅力抜群でした。

 特に面白かった事実としては、彼女は出演作品では必ずどこかで泣いているということ。それがまた似合うこと。
 永遠の、涙のヒロインです。

 とてもオススメしたいですが、日本未公開・未販売で、現状輸入版しか手に入りません。
 それでも観たい方へは、是非ともオススメしたいです。

 ↓『THE GREATEST』予告編↓




●この記事で紹介したもの

・映画:『THE GREATEST』
・映画:『ラブリー・ボーン』
・映画:『オー・マイ・ゴースト!』(オススメ!)
・映画:『キック・アス』
・映画:『007』シリーズ
・映画:『魔法にかけられて』
・映画:『RENT』


 

2011年4月18日月曜日

梅太@ 雑記:応援リンク

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 我々のブログの右の欄に、ひっそりと存在している外部HPのリンクですが、本日一つ、増えました。

 私、梅太が少し前に知り合いました、ゆきリンダさんという方のHPです。

 リンダさんは介護の現場で働きつつ、絵本作家も目指しているパワフルマンです。
 それは自然と、心身共のケアへと繋がっていて。
 それはきっと、リンダさんの根本の部分なのではないかなと、ちょっと思っています。

 まだ一度しか、直接お会いしたことはありませんし、
 まだ一度しか、リンダさんの本を手に取ったことはありません。

 でもツイッター(@yuki_rinda)などで、ご活躍はいつも拝見させております。
 そしてこの度、応援リンクとして、右の欄にこれまたひっそりと付け加えさせて頂きました。

 これからも応援しています。

 僕が作った短歌に、リンダさんが絵をつけてくれました。
 『桃色の絨毯の上を軽快に走る七色のランドセル
 僕の素敵な思い出の一つになりました。
 どうもありがとうございます!

2011年3月31日木曜日

梅太@ 雑記:年度の終わりとハードボイルドワンダーランド

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 今日は何も気にせず伸び伸び書きます。

 さて、2011年も早3ヶ月が過ぎたところ、。
 ここのところプライベートで、映画以外の色々なことに手を出しすぎて、はて一体全体何をやってきたのかと、細かい部分がぬけ落ちてしまっているので、備忘録としてここに残しておこうかと、思ってみたりみなかったり。


 ちなみにこの文章の中で、ピンクのスーツの女性や、胃拡張の司書さんが出てきたりはしないし、また<私>の世界と<僕>の世界による2部構成にもなっていたりはしないので、期待していた方には申し訳ない。
 が、『ダニーボーイ』くらいは出てくるかもしれない。

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▼▼▼映画▼▼▼

 近年希にみる、劇場鑑賞数の少なさです。
 題名だけ列挙。

 ・ノルウェイの森
 ・スプライス
 ・ソーシャルネットワーク
 ・キックアス
 ・ボッカチオ'70
 ・ウォールストリート
 ・平成ガメラ3部作(オールナイト)
 ・ファンタスティックMr.FOX
 ・わたしを離さないで

 『キックアス』は2度目の鑑賞なので、新作だけでいったら6本ですね。むぅ。
 でも代わりに、DVD生活は充実。
 といっても、殆どチャップリンしか観ていないですけどね。年内中に有名どころはしっかり制覇しておきたいです。
 チャップリンが終わったら、ヒッチコックかな。
 『SUPER 8』がやる前に、何となくスピルバーグの作品を改めて観ておきたい気もするんだが。
 でも何やかんやで、極論キャリー・マリガンに落ち着くこの3ヶ月。

↓『SUPER 8』予告編↓



↓『わたしを離さないで』予告編↓



▼▼▼読書▼▼▼

 手帳を観ると、劇場で 『ノルウェイの森』を観た後から、村上春樹しか読んでいないみたい。
 昨日『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読み終わり、ここらで一つ区切りをつけたいと思っている。
 一番のお気に入りは『スプートニクの恋人』かな。
 題名に恋して、中身の言葉に恋して。
 人工衛星に乗ったあのライカ犬の運命を思えば、どんな事だってたいしたことはないのでないかと思う今日この頃。
 あ、これは『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』か。

 一人の作家の作品を集中的に読んでいると、その人の考え方の軸が見えてきます。
 あの手この手で物語を綴っているけれど、村上春樹の軸は、言いたいことは多分そこなんだろうな・・・というのが、何となく見えてきた。
 また、比喩表現の多用というのも、一つの特徴かもしれない。
 これは昨年『ブライトスター』を観て、詩というものを少し真剣に考えた時期に、自分の中で見いだしたものと重なる部分がある。
 いつかこの辺は、ちゃんと形にしたい気もする、でも、したくない気もする。とにかく『スプートニクの恋人』を読んでいる時の高揚感と、読み終わった後の余韻は、宝物のような気がしている。

 ↓『ノルウェイの森』予告編↓



 ↓『ブライトスター』予告編↓
 



 次。

▼▼▼音楽▼▼▼
 
 昨年末に第九を聞いて以来、すっかりクラシックを聞くようになった今日この頃です。もっと第九を・・・と思ってお店を回っている間に、増えていったのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でした。
 また、ある日、これは後でも登場しますが『ムーンリバー』というカクテルを作ったときに、ふと『ティファニーで朝食を』を思いだし、でもそれは風と共に去り、月、月・・・・あ!ということでドビュッシーの『月の光』を流しながら、お酒を飲んでいたのです。
 ちなみにこの時聞いていたのは、偶然持っていた『つぐない』という映画のサントラに収録されていたものでした。

↓『つぐない』終盤のこのシーンで流れるのです↓


↓『ティファニーで朝食を』オープニング↓



 お酒の力も、ままあるにせよ、世界にこんな美しい音があるなんて知らなかったということで、目から鱗、棚からぼた餅、もう涙々の大団円で、一気にドビュッシーの世界にハマる。いやドビュッシーの・・・というよりは、もう「月の光」に限定してもいいかもしれない。
 というわけで、第九探しはチャイコフスキー探しになり、流れで『月の光』探しになったわけだ。
 CDいっぱいあるよ。

 また2月末には生で聞きにいったりもした。5月末にも行く予定。聞けるだけ聞く。
 オーケストラに関しては、10月にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聞きに行くことが決まっている。できれば4大を制覇・・・と行きたいところだけど、みずほ銀行と相談する。

 そうそう、演奏する立場にも立ってみようかと思って、ちとピアノを始めた。といってもキーボードだけど。



 年内に一曲くらい・・という目標でいる。

 次。

▼▼▼落語▼▼▼

 1月末に、桂三枝の落語を聞きに行く。一瞬で惚れて、先日新宿末廣亭で、今度は友人を連れて寄席を観る。
 僕は言葉が好きだし、ジョークやユーモアは大好きだし、落語っていうのはそんな僕のために用意された伝統芸能のような気がしてならない。
 耳から入る物語・・・というのは本等、そこに留まっている言葉を解釈するでなく、常に流れる音を捉え、大胆に、時には匂わせるくらい細やかな、ユーモアの意味を理解する。
 話し手としては、それを理解させる。
 瞬時の相互理解。笑いの共有。あ~楽しい。
 言うなれば幼少の頃の読み聞かせにも似ているのかもしれない。落語のエッセンスを掴めば、子供が出来たとき役に立つかもね。

 寄席はこれからも通い続けます。
 とりあえず、都内の寄席は、今年中に制覇したいところ。

▼▼▼他、細々と▼▼▼

●バレエ
 クラシックバレエ初体験。
 これまでスクリーン、紙、キャンパスなど、ある媒体を通しての表現というのはいくつか観てきたけれど、自分の体こそ表現の道具・・・というのは、バレエならではかもしれない。
 演劇にも似るところはあるかもだけれど、言葉というものがなく、体しか頼るものがないのは、そこに一本、線を引く感じがある。

●オペラ
 震災により中止。残念。

●シンポジウム巡り
 『Life shippo project』
 『未来を拓く脳科学研究』
 の二つに参加しました。逃したものは数知れず。
 めげずに頑張る。

 どちらも、表現というものへの理解の手助け、という、直接には関係ない部分で非常に役に立っています。

●写真関連
 動画は一本制作。ネタ動画だけど、でも時間を共にした人たちに楽しんでもらえたのは嬉しかった。
 写真はちょいちょい撮ってます。そろそろサクラですなぁ。
 
●美術館・展示
 友人が芸大を卒業すると言うことで、その卒展。
 ネイチャーセンス展で得た考え、それに似通う部分があり、あ~こんなところで世界が繋がるもんだなぁと、作品の素晴らしさにそんな気持ちも上乗せして、酔い時間でした。

 写美にてAPAアワード2011。
 ガーデンプレイスの景観も相まって、写美に行くと写真撮りたくなります。恵比寿の写真が多いのは、そのせいかもしれません。

 ツイッターでフォローさせて頂いている絵本作家志望のyukiリンダさんの絵本展示にも行った。
 絵本については昨年『かいじゅうたちのいるところ』から色々と考えることもあり、また上野はこども図書館にて『絵本の黄金時代』という展示を観て、この分野に益々のご健勝・・・間違えたますます興味を持ち始めていたところ、こんな展示があったので無条件に飛び込んだ。yukiリンダさんの本は勿論、他の作家さんたちの本も素敵な物ばかりでした。自分の思っていることを表現できるっていうのは、ホント、すごいことなんですよね。

 文化服装学院の卒展。
 これは本当に偶然見つけて、ふらっと立ち寄っただけなのだけれど、非常によかった。
 特に、靴の展示が良くて、歩くこと、それ即ち物語を紡ぐこと・・ということに気づかせてくれた作品があり、ありがとうと言いたい。ありがとうさぎ。

 まほうのことばでポポ・・・はい、次。

●短歌
 休業中

●散歩
 そろそろ再会

●マジック
 昨年後半から方々でやってる。主に飲みの場が多い。
 先日部活時代の相方につれられ、久々にマジックショップへ行った。楽しかった。
 相手が飲んでる(僕も飲んでる)ということで、ネタは限られるけど、その分口がウマくなってる気がする。そのうちネタをやらず、口だけになるかもしれない。そうなったらもう、ただのトークだ。きみまろ状態だ。

▼▼▼料理▼▼▼

 上記したように、週末は大体外にいたので、ゆっくり料理をした記憶がない。
 けど、節目節目でしっかりお菓子は作っていたようだ。

 生チョコをうまく作りたい。

 加えて、年末からカクテル作りにも手を出し始めた。特にジンベースのものが、僕には合ってるみたい。ギムレットとかね。ギムレットにはまだ早いってね。
 フィリップ・マーロウだね。
 double boiled extream.


 

 今のところ一番好きなのは『ムーンリバー』といって、ジンとアプリコット、クアントロー、ガリアーノ、レモンジュースで作るカクテルです。

↓カクテル『ムーンリバー』↓
 そう、『ムーンリバー』と言えばオードリー・ヘップバーンです。ティファニーです。水木しげるの描く一般人みたいなマンションの管理人が出てくるあの映画です。いいですねぇ。
 



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 プライベートはざっとこんな所でしょうか。
 いざ書いてみると、結構な濃縮還元っぷりで、自分でもちょっと驚いている。
 実に落ち着きの無い3ヶ月をダラダラ書いてみたけど、ダラダラしすぎてオチがつかないという悩み。

 でも頭の整理は大分出来た。おかげで。
 さて、次は物品整理、つまりお部屋の大掃除をしなくてはいけない。ずいぶんと物がふえたから。

 さ、年度明けは、社会人3年目。
 石の上にも三年と良く言うけれど、この言葉は真理だと思う。
 テンションとモチベーションは右肩上がり。家の消費電力は右肩下がり。
 小さなことでもコツコツと。小さじいっぱいの勇気を・・・これなんのフレーズだっけ。

 来年度もがんばっていきやしょう。


 ↓『ダニーボーイ』↓

2011年3月15日火曜日

梅太@ コラボでシネマ:ブルースと言う名前の贈り物

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 なんだろう、何となくこんな時って、ヴォネガットが読みたくなるのですよね。

 『国のない男』- カート・ヴォネガット

 二次大戦を経験し、ヴォネガットは人間の愚かさを知る。
 それは彼の数々の物語の中で色濃く描かれるが、同時に彼は、人間が見出した色々の芸術を愛した。
 そして芸術を通じて、色々あるけどそれでもやっぱり、人間への愛情を捨てきれない人だった、と僕は思っている。

 ヴォネガットがこの本の中で語る二次大戦、それは人が相手のものである。
 一方、今回の東北大地震、それは自然が相手である。
 しかし相手は違えど、人に与えた、特に精神的なダメージというものは、どこか共通する部分があるように感じた。

 この本で描かれた一つ一つの台詞、ユーモア。
 それは大地震でダメージを受けた人、そして実被害から免れても、連日のニュースで精神的に参ってしまっている人、そんな人へ、ちょっとした薬になるのでは無いかと、思ったのです。

▼▼▼▼▼▼▼

 ・・・といって、全ての言葉を書き出すことは、いわゆる著作権法なり何なりに引っかかり、この状況下で警察の方々のお手間を増やすわけにはいかない。
 なので中でも、音楽とユーモアについて、幾つかを抜粋することにする。

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ブルースは絶望を家の外に追い出すことは出来ないが、演奏すれば、その部屋の隅に追いやることは出来る。

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 背景はこうだ。
 アメリカの奴隷時代、つまり黒人に対する差別が酷かった時代。
 白人の奴隷所有者達の自殺率は、奴隷であった黒人のそれよりも高かったらしい。

 その理由は、奴隷たちが絶望の対処法を知っていたからということみたいだ。

 今置かれてる現状が、そしてこの後に残る傷跡が、キレイさっぱり消えるわけでは無いけれど、それを外へ外へと追いやろうとする。
 そんな術を具現化したもの、それこそがブルースという音楽・・・らしい。

 負の状況下で、ポジティブに生きようとする力。
 確かにブルースを聴いていると、底から持ち上げてくれるような感覚がある。

 この言葉を読んだとき、色々と繋がったものがある。
 なぜヴォネガットは、数多くある音楽のジャンルの中で、このブルースを取り上げたのか。

 それは”ユーモア”に対する、ヴォネガットの考え方;ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う - に寄るのだと思う。
 そういう逆境的な局面で、生まれるものがあるという事だ。
 (おっと、セミコロンを使ってしまった)

▼▼▼▼▼▼

 さて、普段あまり真面目に見られない僕ですが、ユーモアってなんだろうというのは、意外に真面目に考えていて、いやそもそもユーモアを眉間に皺寄せて根つめて考えたら、それって自分は面白く無いだろう、その状況、むしろ笑える・・・という、これもまた一つの小噺なのだけど、そこは置いておいて。

 ・・・話が逸れたけど。

 こういう状況下で、笑いの力って凄く威力を発揮すると思うのだけど、いざ災害とご対面してみると、それって難しいと、心から思いました。
 この状況で、お前何を言ってんだ?と言われる可能性だってあるし、ヴォネガットも「どうやってもジョークにならない素材というものがある」と言っている。
 (彼の場合、大災害はジョークに出来る分類に入るみたいだけど)

 今回改めてこの本を読んだとき、確かに、僕が求めるユーモアってここにある・・・と思った。
 少し皮肉っぽいけど、決して攻撃的でなくやわらかい、聞くと安心するユーモア。
 でも自分でやるとなると、境目というものが、わからない。
 この線は超えていいのかいけないのか、わからない。

 いやはや笑えるジョークは、むつかしい。
 そしてジョークって、すごく勇気がいるものなのだと、思いました。

 でも、週が明けて、人に会って、笑っていると、かなり救われますよね。
 笑いっていうのはいいものです。

 怯むなんて、僕らしくない。
 だから自分としても、ここでめげないで、ユーモアについてもっと勉強したいと思いました。
 いや、勿論その前に、被災者の方に、実のある支援をするのが先決ですけどね。

▼▼▼▼▼▼

 さて、なにも本の紹介をしようと思って、このブログを立ち上げたわけでなく。
 いやそれでも、ほんのちょっと位は、本の紹介をしたっていいじゃないかよ、とも思いつつ。

 このブログは何のため?と言われれば、そうだ映画の紹介の為だと思い。
 こんな時、ブルースのように、皆を元気にしてくれる映画ってなんだろう。

 お察しの方もいるかと思いますが、ここでは『ブルース・ブラザース』を紹介させて頂きます。
 いやはや、実に安直。

 主人公兄弟が織り成すドタバタ劇は、否応なしに見るものを笑わせてくれますし、劇中歌われるブルースの数々は、吊られて自然と体が動いてしまいます。

 一曲だけ、紹介。
 その名も『監獄ロック』。
 上に書いたブルースの歴史を聞くと、題名が皮肉っててね、いいでしょ?

『Jailhouse Rock』



↓↓↓劇中シーンはコチラで観れます↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=g22b9mjzQKg


 ジョークと、音楽に満ちた、こんな時、抜群にオススメしたい作品。
 余裕のある方は是非どうぞ。

 そういえば、先日Bar NOIに行った時、外人さんとこの作品の話になりましてね。
 そしてヴォネガットの本、ブルースの話。
 何だか色々と、繋がってる気がする。


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 最後に。 またヴォネガットの言葉で。

===============

唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。
ユーモアは人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。
百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっと嬉しいと思う。
===============

 僕は4年ほど前にこの言葉を読み、以後、物事の考え方の軸になっている。


●この記事で紹介したもの

・本:『国のない男』 - カート・ヴォネガット
・映画:『ブルース・ブラザーズ』



被災者の方、そうで無い方も、みんながんばろう。

2011年3月1日火曜日

梅太@ 雑記:わたしにならできる1つのこと

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 募金というのは素晴らしい制度だと、24年生きてきて・・・いや物心のつく数年間をさっ引いても、10何年生きてきて、初めて思った。

 今日はそんなお話。

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 といって、いきなり話が少し変わる。

 僕の2大趣味として映画鑑賞と読書がある。
 最近は爆発的な勢いで興味の幅が増えてきて、過去を振り返ると時に「よくあのころは趣味が絞れてたなぁ」と思うばかりであるけれど、幅は増えてもこの二つがトップなのは変わりない。
 映画と読書、この二つには、そこに展開されている物語に身を沈めること、登場人物たちが生きている人生を疑似体験すること、そんな共通点があると思う。
 この世界ではないどこかで、自分ではない誰かの考えていることに思いを馳せる、昔から、その行為が好きであった。

 僕は物語を咀嚼するのに、かなり時間をかかかってしまう。それは一つ一つの場面を想像し、台詞の一つ一つの意味を考えると、自然とそうなってしまうのである。
 ご飯を食べるときも、それくら時間をかければきっと健康的なのだけれど、そこは置いておこう。
 
 登場人物たちが置かれている現況を想像し始めると、僕は精神的に結構キツくなる時がある。
 
 例えば「つぐない」という映画の原作となった、イアン・マキューアンの「贖罪」で、戦地に赴いた青年が喉の渇きを必死に耐え、集合場所へ向かうシーンがある。僕はこの場面を読んでいるとき、本気で喉が渇いてしまったし、蛇口をひねれば水が出る・・・という環境に、えらく感謝したことを覚えている。

 勿論ハッピーな描写であれば、そこに身を浸して自分も幸せになれたりもする。
 しかし身を浸すという行為は、場合によってはとても危険な行為だと感じることもある。

 が、それに対する策も、実は持っていたりする。それは「これはフィクションです」と割り切ってしまうこと。僕は意外とバイオレンスな描写に強いのは、実はそんなフィルターをうまく利用しているからである。

 しかし、フィクションでない事例に遭遇すると、このフィルタは機能しなくなる。

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 先日発生した、ニュージーランドでの大地震。災害の詳細を把握したのは夜のニュースであったけれど、救出された人のコメント、まだ救出されてない人の安否を気にする人の姿をカメラは捉えていく。
 その人たちの立場になって、その人たちの気持ちを想像し始めると、僕は今、夜ご飯を悠々と食べていていいのだろうかという気がしてくる。
 気にしすぎだと、言う人もいるかもしれないけれど、映画や読書を通じて培ってきた「誰かの立場になって」という行為は、もう息をするのと同じくらい自然な行為となってしまっている。
 だから、結構つらい。こういうニュースを観ると。

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 また映画の話に少し戻る。

 僕は「キック・アス」を観たとき、ものすごく感銘を受けた。
 根底に流れるテーマとして、「すごいことは出来ないけれど、そんな自分でも出来る小さなことを見つけよう」というのが、あると思う。勝手な想像ではある。
 主人公:デイブはマンガやアニメに出てくるヒーローに憧れる青年。ある日、「現実世界にヒーローがいないなら、俺がなってやる」と意気込み、全身タイツを買い、”キック・アス”と名乗って町へ繰り出す。
 ヒーローとしての最初の仕事は、車上荒らしのチンピラを退治することであったが、彼は返り討ちにあい、瀕死の重傷を負う。
 回復して、もうヒーローは諦める・・・とはならず、彼はヒーローとしての活動を再開することを決める。
 復帰後の最初の仕事は、なんと、迷子の猫を探すこと。
 チンピラ撃退からしたら、偉くスケールが下がってしまったが、それが彼なりの、”今の自分に”出来る精一杯なのだと思った。

 自分には凄いこと出来ないし・・・として退くでなく、それでも自分に出来る小さなことを探す。その気持ちこそヒーローの第一歩。
 僕はこの一連の流れに偉く感動した。

▼▼▼▼▼▼

 さて、話を戻す。

 今、地震の被害で苦しんでいる人に僕が出来ることってなんだろう、と考えてみる。

 現地に飛ぶなんて出来ない、直接助けることはできない。
 それでも何か出来ないか。

 として、浮かんだものが募金だった。
 募金なんて、今まで真剣に考えたことはなかったが、浮かんだことはそれだった。
 そして、募金についてちょっと考えてみると、募金は、渡す相手の顔が見えるわけではない。ついつい「僕には関係ないから」とスルーしてしまう。
 僕もそうだった。

 でも現に苦しんでいる人がいる、というのを、テレビでも新聞でもいいから観て、その人たちはいまどうしているだろうと考え、いてもたってもいられなくなる人が、おそらく世界中にいて、それでも何かしてあげられること・・・として考え出されたのが、きっと募金という行動の始まりだったのだろうと、今は思う。

 だから、ニュースを観た翌朝、僕は募金をした。
 僕でも出来る小さなこと、であった。

 相手の立場になる・・・という行為は、多分これまでも出来ていたはずだが、それに対して何かアクションを・・・という心持ちは、恐らく「キック・アス」の物語を咀嚼しなければ至らなかった考えだ。
 災害と、映画と、平行して考えることは不謹慎になるのかもしれないけれど、でもそのおかげで気付いたというのは事実である。

 結び、が思いつかないけれど、ちょっとここに、思ったことをつらつら書いてみた。

 募金という物に対し、考え方が変わった週であった。

 セブンイレブンでは3/6まで募金を行っている様ですので、気付いたら少し、入れてみて下さい。

2011年2月13日日曜日

梅太@ コラボでシネマ:株のレートとチョコレート

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 世間はバレンタイン一色です。
 そこで今日は、チョコレートと映画のコラボ。
 チョコレートの出てくる映画?と思いきや、そこはまったく関係ございません。

 世の中には、バレンタインが近づくと女の子の動向をチェックし、チョコレートをもらえるかどうかヤキモキする・・・でなく、株のレートを常にチェックし、投資した金で利益を上げられるか否か、それしか気にしていない、そんな男共が存在するのです。

▼▼▼▼▼▼

 今回コラボに選んだ映画は、現在公開中の『ウォール・ストリートmoney never sleeps』。
 キャリー・マリガンが見れさえすればそれで良い・・・くらいの気持ちで、でも100%楽しみたいから、未だ観ていなかった前作を見、ごめんなさいと言わざるを得ないくらい素晴らしい作品であったため、続編も心して見ようと意気込んで映画館へ行って参りました。

 が、本題に入る前に、キャリー・マリガン熱にもうちょっと付き合ってね。
 ただ書きたいだけなのだけど。

 『パブリック・エネミーズ』でファンを獲得したとは考えづらいけれど(一瞬しか出てないし)、『マイ・ブラザー』や、何より『17歳の肖像』という拍手を送らずにはいられない作品のおかげで、恐らく徐々に人気を獲得・・・というか、人々に恋の嵐を巻き起こしているであろうキャリー・マリガンですが、本作でもその魅力は抜群であり、ショートヘアになったことで顔の輪郭がハッキリして、横顔が一層愛らしく、たまらなく美しくなった気がします。全ては横顔ですよ、もう。フェチがどうとか言う話をするのであれば、僕は横顔フェチなのだよ、多分。

 あとオープニングのYシャツ姿で、「オリバー・ストーン、よくやった」と唸りましたが、それは冗談として。

 今回は涙を流すシーンが多かったですが、彼女の恋は一筋縄ではいかないらしく(『17歳の肖像』参照)、観ていて「お~い、頼むから誰か、というか脚本さん!彼女を幸せにしておくれよ!」と願うばかりでしたが、涙を流すその顔もまたいいのですよね。

 今年は『わたしを離さないで』という本命も残っておりますし、いやキャリー・マリガンに義理も本命もないのだけれど、輸入版で購入した作品もまだ観てないですし、今年もまた、キャリー・マリガンにどっぷり浸かろうと思っております。

 そんなわけで、バレンタインにちなんで作った「ガトーショコラ」を、キャリー・マリガンに捧ぐ。


 あ、あとついでに会社の人にも捧げるつもり。



 さて以下、多分上記文よりも短いけれど、至って真面目な作品の感想。

▼▼▼▼▼▼

 金は眠らない。
 情報も眠らない。
 時が止まることはない。
 しかし流れる時の中で、人は変わる。
 お金や時間の持つ意味・捉え方も変わっていく。
 株価が日々一定では無いように・・・・

 金は天下の廻りもの。金がなければ何もできない、という現実に、僕たちは生きている。
 失われた時間を取り戻そうとするかつての金の怪物が、時間を意識し始め、決断を下す場面を観たとき、ある言葉が頭に浮かんだ。
 お金が主役であった1作目に対し、続編であるこの2作目は、時間が主役なのだ。
 僕の頭に浮かんだ言葉は、time is money.
 それはウォールストリートを舞台に描かれた毛色の違うこの2作を結ぶ言葉であると思ったし、また変わらず根底に流れているのは、”GREED(欲望)”という言葉であるのだ。

 経済には波がある。それは他ならぬ、人の欲望が作り出す波である。
 それはまた、新たなバブルを生み出す可能性がある。
 そしてまた、弾けることがあるかもしれない。
 ”今は”未だ弾けていないだけで・・・ 
 人の欲望がある限り、それは起こりうる未来として、考えておいた方が良いのかもしれない。

 青空へ高く高く上っていくシャボン玉が、弾けるのか弾けないのか。
 そんなグっと惹きこまれるラストシーンがとても印象的。
 素晴らしい作品でした。

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 新作が手薄だ。
 でもその分、旧作層が厚くなっていっている。
 今年くらいはそれで良いと、思っている。

 そんなつぶやきと、キャリー・マリガンの横顔でお別れです。




●この記事で紹介したもの

・記念日:バレンタインデー
・料理:ガトー・ショコラ
・映画:『ウォール・ストリート money never sleeps
・映画:『ウォール街
・映画:『パブリック・エネミーズ
・映画:『マイ・ブラザー
・映画:『17歳の肖像

2011年2月10日木曜日

梅太@ コラボでシネマ:文化の差は砂糖の差に表れる?

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 以前mixiに挙げた記事なのです。

 本日の英会話教室にてsweetsの話になりました。
 目下話題はバウムクーヘンで、アメリカではそんなにメジャーな食べ物ではないとか、アメリカではケーキはホームメイドが基本だ!とか、アメリカではもう砂糖をメッチャメチャに入れるんだ!とか、そんな感じの話題になり、「あ、そういえばアメリカ発のパイを作ったことあったよねぇ」と思い出したので、文章を少し改変して、ここに挙げておくことにした。

 作ったのはいつだったか。
 昨年の初夏でしたか。
 今日は雪が降りました。暖かさが懐かしくなる今日この頃です・・・

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 『ピーカンパイ』。
 ピーカン(orペカン)とは何ぞや?
 あの緑色の野菜とか、下手したら腐った卵に間違えられそうな名前だけれど、全然違います。 

 要はクルミの一種で、アメリカで採れるものらしい。
 殻剥きはリスにやらせているらしい。それは中身を傷つけずに取り出せるからである。
 と言う冗談はさておき、『ピーカンパイ』は、アメリカの名物パイであるとのこと。

 ポイントは勿論ピーカンと、そしてコーンシロップなのだそうだ。
 僕の愛してやまない輸入食品店『KALDI』で、ピーカンは売っていたのだが、コーンシロップは残念ながら売ってなかった。Oh, dear.

 と言うわけで、ピーカンパイ(仮)という事にしておこうと思う。
 作り方は意外と簡単なので、シロップを手に入れたらまた作ろうと思う。

 ”簡単”とか言ってみたけれど、強がっているのは見え見えで、生地は加減が難しい。
 もうちょっと経験値が必要であることは確か。

 しかし焼きあがりは上出来。



 材料を眺めた感じとしては「甘すぎやしないか?」と思ったのですが、今日の英会話教室での話を聞くとちょっと納得。
 ホントに大量に砂糖を入れるそうだ。
 でも「コーヒーはブラックだからいいんだよ!」というところを先生が強調していて、そこが面白かった。
 確かにアメリカ映画で、パイとブラックコーヒーという絵はよく観るので、しっくりくる。

 ・・・先生の話は大袈裟だったにせよ、甘い甘いシロップを、ピーカンの苦味がうま~く中和してくれていて、すごくバランスの取れた味になっているのですよ。

 あ、また食べたくなってきました。

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 さて、『アップルパイ』でも、
 『チョコレート・クリーム・パイ』でも、
『ジュリー&ジュリア』より

 『主人なんて大嫌いよ!パイ』でもなく、

『ウェイトレス』より

 何故『ピーカンパイ』という聞いたことも無いパイを作ったかといえば、『サンシャイン・クリーニング』の一場面にインスパイアされたからだ。

 こんなシーン。

 主人公姉妹の母は、若かりし頃にエキストラ出演したTV映画で、製作人にその魅力を買われ、急遽台詞ありの役に抜擢された。
 その台詞は、

 「I'd recommend the pican pie(ピーカンパイがオススメです)」


 である。

 姉妹は、その映画を観たことがなかったが、母がいつもその話をしていたので、台詞はすっかり覚えていた。
 劇中、姉妹が偶然この映画を目にすることになるのだが、そのタイミングが絶妙で、ちょっとホロっとくる。

 そして、
 「よし、ピーカンパイを作ろう!」
 と、なったわけである。
 映画の力は偉大だ。

 『サンシャインクリーニング』はとてもオススメしたい作品です。

 生きていく上で失敗や嫌な思い出というのはどこかで必ず着いてくるものだけれど、それをずっとずっと抱えて生きていくことは、恐らく出来ない。
 そういうものを一度、綺麗に洗い流すこと。
 また完全に忘れることはできないものもあるけれど、そういうものを自己の中で、一度整理してみること。
 そうやって次の刺激を受け入れる心のスキマを、うまく作って生きていこう。
 そう思わせてくれる作品です。


●この記事で紹介したもの
・料理:ピーカンパイ
・映画:『サンシャインクリーニング
・映画:『ジュリー&ジュリア
・映画:『ウェイトレス
・映画:『チャーリーとチョコレート工場

2011年2月8日火曜日

梅太@ コラボでシネマ:福の巻き方、招き方

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 2月3日:節分、といえば、豆まきと恵方巻きが思い浮かぶと思います。
 今年は恵方巻きを自分で作ってみようと思い、巻きすを買って挑戦してみました。
 先週の話。

 結果がこちら。


 ・・・見た目はあまり良く無いですね。
 次の日会社に持っていったら、庶務の方が端まで綺麗に作る方法を教えて下さいました。
 そう、僕は四角い部屋を丸く掃く性質ですので、こういうの苦手なのですよね。
 先に聞いておくべきでした。来年はもっと頑張ってみよう。


 切り目は結構綺麗ですね。

 今年の方角(誰が決めてるのか知りませんが)を向いて、目をつむり、一言も話さず、願いを込めながら食べる。それが恵方巻きを食すときの一連の流れでありますが、まだ若い僕としては、この恵方巻きを関東では最近やり始めたものらしいということを、今年初めて知りました。
 うちは結構前からやってたのですけどね。
 でも目をつむるというのはやっていなかったですね。
 一言も話さずというのは、込めた願いを飲み込む前に外に出さないように、ということなのでしょう。

 そもそもこの恵方巻きというものは、関西で始まったものだそう。全国的に行われ始めたのはだいたい10年前で、商業会の販売促進運動が普及のキッカケだそう。
 また起源としては、商人が福を願って行っていた・・・という説もあるみたい。

 さて、話を少し戻しまして。
 今年の方角を向き、福を食す。これは知っていたのですが、いざ作る立場になって調べてみると、恵方巻きはその調理課程から、わんさか福を盛り込むように仕組まれていることに気づきました。

 巻く行程には、福を巻き込むという意味があるらしく、なるほどこれを聞くと、商人が福を願って行ったというのも頷けますね。
 具は、基本的には恐らく何でも良いのでしょうが、7つの食材を入れて巻くものもあるみたいで、それは7福神に例えているらしく、これまた縁起がいい代物となっております。

 つまり上に挙げた7つの食材を使い、福を意識しながら巻き込みつつ、今年の方角を向いて目をつむり、願いを思い浮かべながら、一言も話さず食べるというのが、最強のパターンとなるのでしょうね。

 7つの食材は流石に使わなかったですが、ちゃんと作ってみました。
 でも7本作ったので、七福神!というわけにはいかないでしょうか。

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 そろそろ映画の話をしようか。

 さて福を呼ぶものとして他になにかあるだろう・・・とぱっと思いつくのは、これまた商人の話になりますが、招き猫というのは有名どころですよね。
 猫はとてもありがた~い生き物な気がしてきますが、まったくもって福を呼びそうにない猫がいます。

 それが、キャットウーマンですね。

 シリーズ最高傑作『バットマン・リターンズ』より

 つぎはぎの黒い布に身を包み、愛人への復讐に燃える猫ですから、それはもう福を呼び込むはずもなく。
 また黒猫ということで、アラン・ポーが作り出したイメージと、魔女の側近なんてイメージは恐らく永遠に消えることはなく、不吉の象徴として扱われてしまっています。
 イタリアでは未だにその迷信が根強く残っているみたいで、猫が前を横切ると、その線を越えるのを躊躇うそうです。『イタリア的恋愛マニュアル』という映画で、そんな描写がありました。調べてみても、やはりそうらしい。
 『ネコを探して』でも猫に対して人間が植え付けた勝手なイメージ・・・というものを指摘していて、何度も目を覚まさせられた記憶がまだ新しいです。

 あれ、暗い話になっていますか。

 しかし調べてみると日本では、実は真っ黒な猫は魔除けとして扱われていることもあり、あながち負の念だけを持っているわけでは無さそう。
 また某宅急便会社は黒猫をトレードマークとして掲げ、人々に荷物と思いやりを届けるために日夜走り回っております。また不在で受け取れない場合は店頭受け取りやコンビニ受け取りといったサービスも提供しておりますし、面倒な電話手続きが嫌だという方は、メールでえいや!っと申し込み出来て、かなり便利です。
 いえ、宣伝ではありませんよ。

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 何の話でしたか。
 そう、福の話。

 福、というものをどう捉えるか、結局それは人それぞれです。ただ、しっかり思いを込めて作った恵方巻きは、なんだか福を呼び込みそうで。そう、心持ち次第なのですね。

 今年は、現在就活中の後輩君に福が舞い込むよう願って食しました。

 あとは写真をご覧になってわかると思いますが、一人で食べる量ではありませんので、幸せを細切・・・失礼小さく分けて、会社の人にお裾分け致しました。

 良い節分だったかな。



●この記事で紹介したもの

・記念日:節分
・料理:恵方巻き
・映画:『バットマンリターンズ
・映画:『イタリア的恋愛マニュアル
・映画:『ネコを探して
・某宅急便会社
 

2011年1月16日日曜日

梅太@ コラボでシネマ:サッポロ一番カサブランカ ~不朽の名作~

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 僕の勤めている会社は、定時終了後から、いわゆる残業時間開始の間に少し休憩時間がある。
 定時後は、やはりみんな小腹がすく時間であり、そんなとき、カップラーメンの臭いなんて漂わされたからには、ちょっと敵わないところもある。

 そんなときに上司と話した話題:
 インスタントラーメンで何が好きか。

 僕は食べるとしたら日清のカップヌードルが多い。ほかと比べ安いし、スープを吸って量が増えてお得感があるし、またそうなってもおいしさを保っていられる。過去、僕の周りでは圧倒的にシーフード人気だったけれど、僕は断然カレー派だ。次点は醤油。

 上司は、サッポロ一番が大好きらしい。
 不朽の名作!とすら言っていた。やっぱ味噌がいいんだよ、という部分は、かなり共感する。なんせ僕も味噌ラーメンが大好きだからだ。
 九州に住んでいたとき、味噌ラーメンが置いてある店がないというのは、かなりのカルチャーショックであったことを記憶している。そういえば改めてカップめんのラインナップを観てみると、最近豚骨系が異様に多い気がする。

 ・・・この会話の何が面白かったかと言えば、ことインスタントラーメンというジャンルにおいても、”不朽の名作”という言葉が使われるものなのかということだった。
 だから今晩は、インスタントラーメンの不朽の名作と、映画界における不朽の名作を、コラボさせてみようと思った。

 というわけで、「カサブランカ」を観ながら「サッポロ一番」を食べるという、およそ日本でしかできないことをやってみたわけである。

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 「カサブランカ」については、記憶にある限り、全編をしっかり観るのは初めてだと思う。

 「君の瞳に乾杯」など、多くの粋な台詞で彩られる男女の恋愛模様。なんて素晴らしい映画なんだろう。
 なのでラーメンの味はあまり覚えていない。おいしかったとは思う。

 年末にサイレント映画を初めて観たとき、以前文献で読んだ一文「トーキーに入る前に映画の表現形態は完成していた」というのを思いだし、確かにそうなのかもしれないと思ってしまった。つまりそこに、声があるのかないのかという差しかなく、逆に台詞という物がないからこそ、サイレント映画は雄弁に物を語れる(観客に想像させる)ことに長けているのかもしれないと。
 もちろん言葉は、物語を補足する役目もあるだろうけれど、サイレント映画でも物語はしっかり伝わってくるということを知った今、それはやはり”補足”でしかないのではないかと思えてくる。

 そんなことを思っていた矢先、この映画に出会う。
 声が出るようになった最大の利点は何だろう。
 それは人々が憧れるような、口にしてみたいと夢見るような、その台詞にあるのではなかろうか。そんなことを思わせてくれた。

 もちろん、言い方もある。
 主人公を演じるハンフリー・ボガードの、クールな言い回しがまた良いのだね。あぁ僕も言ってみたいよ。あんなこと。


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 最近、昔の映画をよくよく観るようになって気付いたことと言えば、今なんかよりもっと、出演者:スターが主体であって、この人たちをいかに美しく・カッコ良く演出するかというのを、おそらく全力で考えていた時代だったのだと思う。
 だからこそただの言葉が素敵な言葉に響くわけで。
 ただの俯きが、素敵な動作に見えるわけで。

 ヒロインを演じるイングリッド・バーグマンが、バーで「time goes by」を聞きながら、昔へ思いを馳せ、顔を俯かせる。そのときキラと光イヤリング。
 このシーンのなんと素晴らしいことだろう。
 現実でもありそうな場面ではあるけれど、カメラというものの力というか、ある一点をクロースアップすることで、現実世界での脇役(物、人、動作)を、一気に主役に昇華させてしまう。
 もうドキドキする程好きなシーンで、思わず悶えた。




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 恐らくこの時代の映画は、もうゴールデンタイムのTVプログラムには登場しないだろうし、いや登場したら番組スタッフを尊敬するけれど、そんなこんなで見れる機会はなかなかないだろうし、TSUTAYAに行っても余程興味がなければ借りないだろう。
 でも、たとえば僕がサッポロ一番とカサブランカを無理矢理関連づけたみたいに、何かの機会に、ちょっとお手にとってはいかがでしょうか。

 ・・・当時、この作品を作ったスタッフたち、そして君の瞳に乾杯をしたボガードは、よもやこんな使われ方をされるとは思っていなかったろう。
 ちょっとごめんなさい。

 本当はシャンパンカクテルを作って、「Here's looking at you, kid(君の瞳に乾杯)」という台詞で締めたかったのですが、流石にシャンパンには手が出なかったです。

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 まともな映画紹介と言うより、少し視点を変えて。
 書いてて楽しいし、何より無意味で無理矢理な関連付けは得意なほうなので、今後もコラボ記事は続けていく予定です。


●この記事で紹介したもの
 ・日清カップヌードル
 ・サッポロ一番
 ・映画『カサブランカ

2011年1月8日土曜日

梅太@ 2010まとめ:『劇場鑑賞作品』編

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 さて、2010年の映画を振り返る第二弾。
 この記事では、10年に劇場で観た作品について振り返ってみたいと思います。
 以下、観た順に軽く感想を書き、最後にTOP5を書いておきます。

 昨年と比べ、もちろん当社比ですが、少し長めなのです。
 というのも特に下半期はあまり感想を纏める時間が無く、このまとめ記事を書くにあたり、こりゃ良い機会だ!とエイヤっと書いてしまえというわけでして、そんないい加減な本性も見せつつ書きました。

 そんなこんなでやっぱり長めなので、お暇があるときに読んで頂ければ幸いです。


 では一挙にどうぞ!

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●(500)日のサマー
 ヒロインが季節の名前というところに鍵がある。
 季節が巡るように、出会いや恋路も巡っていく。
 来年また夏がきても、それは今年とは別の夏。
 過去を思い返せば、一日一日が掛け替えのないものだと思え、楽しくても辛くても、その一日は今の自分の糧になっているはずだし、その一日が欠けていては、今の自分はないともいえる。
 だからこれからも、出会ったチャンスには向き合おう。
 ポジティブになれる、大好きな一本。

●Dr.パルナサスの鏡
 悪魔の誘惑。
 危険だからこそ、それはまた甘美な響きに聞こえる。
 欲に身を任せると、必ず隣人に影響する。
 そんな誘惑と、人間は古くから戦ってきたのだ。
 ”誰にも出来ない表現”を追求していくテリー・ギリアムの姿勢が、最近妙に好きになってきた。

●ラブリー・ボーン
 娘が殺された。
 残された家族に対する救済とはなんだろう。
 事件の真相を暴くこと。犯人に謝罪させること。
 どれも正しいとは思うけど、この作品で提示された”忘れること”という救済の道は、とても悲しいけれど、同時に優しくもあると感じた。
 徐々に霧が晴れていく作品でした。

●ヴィクトリア女王 世紀の愛
 生まれた時から女王となる運命であった少女。
 周りに対する小さな反抗は可愛らしく、また大人になるにつれ女王という身分を自覚していく過程には、ある男性との恋があった。
 男と女が世にある以上、歴史を動かすのは愛なのだろうな。ちんけに響くかもしれないけど、単純にそう思った。

●コララインとボタンの魔女
 完璧である、ということほど、怖い物は無いのだと感じた。
 例えば均整のとれた能面、鏡に映した様にそっくりな双子、じっくり眺めていると、その完璧さに心寒さを覚えてしまうこともある。それは、人と接する態度も然り。余りに完璧な対応をされると、これは現実かと疑ってしまう。
 そんな世界は、実はこの世界とパラレルに存在しているのかもしれない。入り口は実は、すぐそこに存在しているのかもしれない。それを思わせるラストシーンの余韻が、僕は大好きであった。

●恋するベーカーリー
 子供の恋と、大人の恋。
 どこに違いがあるのだろう。
 大人になると、ましてや自分の子が出来てしまうと、そこには”責任”という二文字がつきまとう。
 だから子供の恋は純粋と扱われ、大人の恋は複雑であると言われてしまうのであると、この作品を見て思った。
 「あなたたちはいつも身勝手なのよ」
 長女が放った一言が、甘い恋の雰囲気をサッと吹き消した瞬間が、僕は大好きであった。

●ハート・ロッカー
 緊張感というのは、同時に快感も生んでしまう。
 爆弾処理という極度の緊張、死と隣り合わせという環境は、危険でありながらも主人公の心を掴んで離さない。
 そんな男が迎える結末は・・・納得のラストであったように思う。
 冷静に話しているけれど、実は手ぶれで揺れる画面に、結構参っていたのも事実。劇場を出た後、酔い止め(後飲みで効く奴)を買った。

●ニンジャ・アサシン
 この壁の向こうには、自由がある。
 暗殺者として育てられ、己の意志も抑圧される。
 主人公が思い描いた自由とはなんだろう。
 それを画として見せるラストが印象的だった。

●プリンセスと魔法のキス
 夢見る乙女じゃいられない。
 時流によって、プリンセス観というのも変わってきたところに面白味を感じた。
 また仲間の死を描くというのも新たな試みであった気がする。
 変わっていくべきなのかどうなのかはひとまず置いておいて。今後、プリンセスの新たな描き方がどう発展していくのか見届けたい。・・・が、それは叶わぬ夢に終わりそう・・・ちょっと残念。

●NINE
 この作品を、劇中の台詞を、この2010年の映画界に放ったことは、ものすごく大きなことなのではないかと思う。
 映画は夢である。夢とは憧れである。
 語られるお話、演技、撮影、音楽、そして編集と、それらには全て夢が詰まっていなければならず、観るものの憧れでなくてはならない。
 映画とは何だろうと数年前から考えていて、解決(は多分しないのだろうけど)への糸口を、また一つ与えてくれた、素晴らしい作品。大好きな作品。

●映画祭:桃まつり 弐のうそ
 ベテランの人が作った映画からしたら荒削りなのかもしれないけれど、余計な装飾がされていない分、”やりたいこと”がダイレクトに伝わってきた気がする。
 そのダイレクトさに直面したとき、”映画を作る上での大前提は、まずやりたいことを明確にすること”という、当たり前だけれど、観客は特に気にしなくて良いかもしれないのだけれど、そういう部分に気づけて、以降の映画鑑賞の仕方に大きな影響を与えてくれました。
 加藤監督、お誘いいただいて感謝しております。

●シャーロック・ホームズ
 黒魔術。
 取り扱った事件が、ホームズの推理観を問う題材であったことに拍手したい。
 「どんなに不可能と思えるような事実でも、あらゆる可能性を考慮し、排除して、最後に残ったのならそれこそが真実」

●ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー
 街があり、人がいて、出愛(出会い)がある。
 「パリ、ジュテーム」よりも、知らない人との出会い、始まる恋、終わる恋というのを強調しているように感じた。

●ジュリー&ジュリア(再映)
 「何もうまくいかなかった日でも、家に帰ってチョコと砂糖とミルクと卵黄を混ぜると、確実にクリームになってくれて、ほっとするの」
 そう語るジュリー・パウエルは、ジュリア・チャイルドのレシピを完全再現しようというプロジェクトを立ち上げる。
 今まで見たことのない食材、調理法、写真(完成見本)のないレシピ本。成功する日もあれば、失敗する日もある。100%を与えたとしても、全てが帰ってくるわけではないのだと、いつしか彼女は、料理も人間関係と同じであることに気づいたのだと思う。
 妥協しろと言っているのではない。大事なのは、やりきること。
 料理を通じ、映画を通じ、そこに気付かせてくれた。
 万人に観てもらいたい作品。
 オールタイムベストの仲間入りです。

●月に囚われた男
 故郷に帰りたいと願う気持ち、真実を知ってしまい苦悩する姿。SFであり、仮想的な物語であるからこそ、そこを”想像”してしまった時の苦しさが辛い。
 月に着陸してから数十年、あそこはまだ、人間の想像力でいくらでも物語が展開できる場所であるのだということを、秘かにうれしく思っている。

●第9地区
 ロマンなのだ、これは。
 ラストシーンで感じたどうしようもない高揚感。
 僕は今後忘れることは無い。

●ソラニン
 詩を書いた人が、そこに込めた思い。
 聞いた人が、そこに感じた思い。
 ここには必ず差がある。
 そして”人生のどのタイミングで聞くか”によって感じ方にも差が生まれる。
 そういう差や、誰かの歌詞に自分の思いを乗せ、”自分の歌”として作り上げることが出来るという事は、僕はとても面白いことだと思う。

●アリス・イン・ワンダーランド
 ”大人”になったアリスは、もうワンダーランドへ訪れることはないのかな。

●オーケストラ!
 協奏とはなんだろうか。
 音を合わせ、一つにすること。そこには曲自体を理解することも必要だけれど、しかしその前提には、”人と”協調することが必要であると言える。
 あの人はどんな音を出すのか。そもそもあの人はどんな思いで舞台に立っているのか。
 オケに入り、自分の周りの沢山の音を知っていくように、隣の人を、舞台の上の友を理解して、初めて協奏は成立する。
 オーケストラは一つの社会である。主人公のこの言葉は興味深い。協奏の意味合いを考えさせられ、それが全て、ラストのヴァイオリン協奏曲で纏まる。素晴らしい作品。
 今年必見の一本。

●タイタンの戦い
 全知全能の神と、人間の違い。
 神はすでに完成させられたもので、人間はそれより数段劣るけれど、人間には”可能性”という武器がある。
 色々な話で語られる設定だけれど、そういう考え方は好きである。
 だからこそその”可能性”を利用しようとする悪魔がいて・・・あ、これは作品が違ってしまった。

●アメリ(再映)
 自分が今こうしている間にも、世界のどこかでは、全く知らない誰かが何かをしている。世界は常に回っている。そこを感じさせてくれるオープニングとラストが大好きだ。ヴォネガットもさくらももこも、国籍は違えど似たようなことを言っている事実にも、面白味を感じてしまった。

●9~9番目の奇妙な人形~
 目覚めたとき、世界は終わっていた。
 主人公たちはラストで少し希望を得たのかもしれない。でも”その先”を想像すると、やはり彼らには孤独が待っている気がして、とても寂しくなってしまった。良い作品。でも寂しい。

●処刑人2
 兄弟二人は、より過酷な戦いへと引きずり込まれていく。その展開は熱くさせられるものがあるが、前作で印象的であった「悪人ならば殺してもいいのか」という問いは、何だか薄れてしまった気がして、残念なようにも感じてしまう。

●ローラーガールズダイヤリー
 青春映画が、何故僕の目に眩しく映るのか。
 わかってきたような気がする。
 ”何を差し置いても、私はこれに賭ける”という姿勢を描くこのジャンルは、その主人公を観ながら自分の青春時代と重ね合わせているものと思っていたが、そういう生き方をしてこなかった僕は、憧れの目線で観ていたのだなと、最近思っている。
 それは置いておいたとして、ものすごく元気になれる作品。青春まっただ中のガールズ達に送るエンドロールのメッセージは、バリモアからの最高のプレゼント。
 僕、男だけど。
 浮気した彼氏に平手うちして立ち去るエレン・ペイジの姿は、最高にカッコいい。

●ブライトスター
 演技も映像も音も。思わず詩として表現したくなるほど美しい。
 やはり詩を理解するには、その場所に身を置くことが一番である・・・ということを、恐らくではあるが監督は理解していて、観客があたかもそこの空気を吸っているかのような情景を作り上げることに、全力を注いでいたのではないかと思う。
 「ヴィクトリア女王~」と重なるけれど、この作品で描かれたキーツという詩人の、その言葉の原動力も、やはり愛であったのかと。愛は偉大である

●告白
 何かをしようと思っても、人間には理性というブレーキがついている。
 ブレーキの使い方を知らない中学生、そんな彼らに娘を殺された女教師。
 女はブレーキをかけることをやめたのか、いややはりそこには、教師として、大人としてのブレーキをかけていたのではないだろうか。徹底的に精神をどん底に叩きつけているような印象を与えつつも、実は仄かに否を漂わせているのではないか。あの結末を、僕はそう解釈した。
 「笑っていいかわからなかった」
 ある観客のこの一言を引き出せたというだけでも、ものすごく価値ある一作品である。
 なぁんてね。

●アイアンマン2
 物語としても展開としても、アベンジャーズプロジェクトを意識しすぎたせいか、単品としての面白さに欠けてしまっている気がした。面白くするファクターは盛り沢山なのに、もったいない。
 ・・・が、ガチョガチョ動くマシーンに、やはり男子は燃えてしまうわけだ。

●ヒーローショー
 暴力の連鎖は止まらない。とても痛い作品であるが、僕が何より痛かったのは”自分の意見”を持たずに何となく生きてきた奴が、最後に生き残ってしまったこと。では自分の意見を持ち、主張する事っていったい何なのだろう、考えてしまう。

●アウトレイジ
 映画として観るザ・ヤクザという要素を盛り込んだ、ある意味楽しすぎる作品。ただそれだけを描いている姿勢が好きでした。
 大きなお世話だよバカ野郎。

●ハングオーバー
 笑ってしまう要素と、「あ、なるほど」と謎が繋がっていくストーリー展開が混じり合う、ちょっと異質なコメディ。とにかく楽しかった。

●借り暮らしのアリエッティ
 ファンタジーの要素は、実は身の回りにあったりする。草の根、床の下、頬を撫でる風。見えないところ、見えないものというは、人間の想像力を刺激する。
 子供の頃は、想像にあふれてた。あの時代に置き忘れた「わすれもの」を思い出させてくれる、良い作品でした。

●トイ・ストーリー3
 こういう考え方はあまり好きではないのだけれど、大人になる過程で、少年は何かを失っていく。子供の頃誰もが触れた”おもちゃ”を題材に、3部を通してそれを伝えきった。
 ただそれを、今この時代に、”ディズニーの足下”でやりのけたという事実は、すこし考えてしまう。

●インセプション
 寝ている間に見た夢というものが、余りに具体的に感じられ起きても記憶に留まっている時、たまに、これは現実かどうかを疑ってしまう場合がある。
 人間の感覚を司っているのは脳であり、夢を見るのもまた脳がある故だからだ。
 何を現実と捉えるか、ひとえに本人の選択次第、そこを感じさせるラストが印象的。

●ゾンビランド
 自分のルールに忠実な青年は、人と関わる上でも一枚壁を置いてしまう。
 またルールを守ってさえいれば、ゾンビに殺される事はないということも心得ている。
 しかしそれでは先に進めない、枠の外へ踏み出さなければ、それ以上の関係は望めない。
 ヒーローになれ。
 青年が一歩踏み出した瞬間の、なんと勇ましいことか。
 ゾンビが繁殖した世界と、殻をかぶってしまった現代人をリンクさせたこの作品は、その発想があったか!と、ただただ興奮させれた。
 必見の一本。

●ジェニファーズ・ボディ
 最低のことしかやっていないのだけれど、何だか目が離せなくなる、いや、くだらないことはくだらないけれど、良い映画。

●ガールフレンド・エクスペリエンス
 性とは、心を生かすと書く。
 「セックス・ボランティア」という本で知った言葉。肉体だけでなく、精神的に満たされてこそ性なのだろう。
 魅力的な女性を前に、すぐに体にいくでなく、自分の話したいことをとことん話し、それを聞いてくれる相手を欲している男性たちの姿が印象的であった。
 先に挙げた本を読んだ後、たまたま知った作品で、とても嬉しい出会いであった。

●仮面ライダーW 運命のガイアメモリ
 平成仮面ライダーを10年観てきて、いよいよ到達した答えがある。
 恐らく、平成ライダーの物語の中に、今の僕が求めるものはないのだろうな。
 卒業とまではいかなくとも、暫くこのシリーズとは距離を置こうと思っている。時がたてば、また何か発見があるかもしれない。

●ネコを探して
 人の観念は時代や環境と共に移りゆくもので、今の時代の観念を他の時代へぶつけ、比較することは難しいけれど、今も昔も変わらぬ客観的な目(ネコの視点)から見つめると、見えてくるものは沢山あった。外からの目は、僕たちを肯定も否定もせず、ただただ事実のみを突きつける。
 この作品を多くの人が見て、何かを感じ取って欲しいなと思った。
 必見の一本。

●ミックマック
 暴力の連鎖を描いた「ヒーローショー」とは対照的に、この作品はその連鎖を断ち切って解決していこうとする人たちを描いている。
 世界が平和でありますように。
 平和とはなんだろう・・・という問いかけでなく、それを作り上げていく一つのヒントを与えてくれる作品。
 ラスト、ドレスが舞うシーンで感じた、何ともいえない幸せな気持ちに、思わず涙がでてきてしまった。

●CHICAGO(再映)
 公開当時、僕は劇場でこの作品を見ていなかった。
 後にDVDで観たときに、本気でそれを悔やんだ。
 この7年間、いつかこの作品を劇場で・・・そう望んでやっと訪れたこの機会。
 作品自体の素晴らしさに、7年分の思いを添えて。
 もう感無量です。
 僕の映画人生に、一つのピリオドが打たれました。
 いや、終わりって意味でなくてね。

●ナイト・トーキョーデイ
 凛ちゃんがしゃべった!ということ以外、あまり覚えていない。

●キック・アス
 スーパーヒーローに憧れた青年は、全身タイツとマスクを被り、突如ヒーローとして街に繰り出す。
 彼が最初にした仕事は、迷子のネコを探すこと。そして、暴力を受けている人を助けようとして、結局自分もボロボロになってしまう姿は、決してカッコいいとはいえない。そんな極限の状態で彼は言う。
 「こうやって苦しんでいる人を、知らん顔で見つめている奴が許せないんだ」

 They can't fly "but" they can kick your ass.(予告編から引用) 
 ヒーローの条件とは何だろう。強靱な肉体を持っていること?超能力を持っていること?
 まず大事なのは、誰かの役に立とうとする、その姿勢なのだと思う。
 目の前に困った人がいる。僕はそれに対処できる力を持っているわけじゃないから、「これはできません」と言ってしまうのは簡単だけど、「”でも”、これならできます」と言える姿勢、どんなに小さなことでもいいから実行しようとする心構えを持とう。
 But
 というたった三文字で繋げた文章、紡いだメッセージに、僕はとても感銘を受けた。ヒーロー作品を多く引用し、描きたいことはそこだったのだ、と、僕は確信している。
 超必見の一本。

●特攻野郎Aチーム
 お金を使って大きなアクション映画作るなら、これくらいやってくれないと!
 爽快な気分にさせてくれる素晴らしい映画。

●恋人を家に送って歩く歩道
●シンガポール珍道中
 名画座にて。
 「恋人を~」
 昔のミュージカル映画に触れる機会が多くなってきた昨今、ミュージカル映画はストーリーよりなによりまず、出演者のパフォーマンスありきなのだと気付かされる日々が続く。
脚本がどうとか・・・と、観客が口うるさくなってきたのって、やはり最近のことなのかな。
 「シンガポール~」
 は寝てしまっていたのであまり覚えてない。

●ユリシーズの瞳
●霧の中の風景
 名画座にて。
 この二つの作品を観たことは、僕に大きな影響を与えた。
 映画館というものは、今ある現実を遮断した独特の空間で、そこに流れる時間は、スクリーンに映し出されている映画に依存する。
 その作品に流れている時間に身を任せることが、真に映画を観る(感じる)ということなのではないだろうか。
 この作品を見てからと言うもの、劇場へ入り席に着いたとき、僕は腕時計ははずすようにしている。

●ブロンド少女は過激に美しく
 偶像崇拝というものについて考えているときに、この作品に出会った。
 テレビ、スクリーンの向こう側にいる人を身近に感じたいという憧れ。
 その一線を越えることは、果たして良いことなのか悪いことなのか。憧れの人物の本性を観てしまったとき、思い描いていた姿との差を、自分は許容できるのだろうか。
 ラストシーンのヒロインの姿、ほんの一瞬のシーンだけれど、それで作中に散りばめられた要素を全て回収し、同じベクトルへ繋げてしまうストーリーテリングに、僕はゾクゾクしてしまった。
 必見の一本。

●REDLINE
 アニメというものの表現力の豊かさ、可能性を感じられた作品。
 CGが主流となった21世紀では、2Dアニメを制作すると「今の時代、あえて2Dで作ることで・・・」という前置きがついてきてしまうところが僕はあまり好きでなく、こういった優れた作品があるのだから、過去の技術どうこう言うのでなく、「これは一つの手法だ!」と、認知して欲しいなと願っている。

●ナイト&デイ
 いきなり現れた敏腕スパイと、それに翻弄されながら自身を変えていく女性の物語。二人の立場がラストで反転した時、knightとnight、題名の二重の意味に気付かされた。

●リトル・ランボーズ
 映画における編集という作業は、単にシーンを繋げるということでなく、”思い”(表現したい事柄)のピースを繋げていき、一つの物へと構築していく作業であることに改めて気付かされる。
 良くできた物語は、その世界に対する憧れを生み、人を異様なまでの高揚へ誘うことがある。思わず走りたくなるくらいの気持ちにさせられる。それくらいの力があるのだ。物語というのは。
 必見の一本。

●おまえうまそうだな
 「おとなになればわかるよ」
 恐らく誰もが、親に一度は言われたことのある台詞であろう。少し強がって、わかっているフリをしてみても、その真意はやはり掴めない。
 それがわかる瞬間は、その人と同じ立場になった時である。
 親の視点に立つ、あのとき親がもっていた責任というものを感じる。それが感じられて初めて、人は大人になれるのだろうと思う。
 視点と、責任の物語。これは「路上のソリスト」や「かいじゅうたちのいるところ」にも通ずるところがある。見比べてみても、面白いのでは?
 必見の一本。

●マチェーテ
 この手のジャンル物のツボをふんだんに盛り込んだ、ジューシーすぎる作品。
 とにかく笑わせてもらった。


●カモメ
●バーニャ伯父さん
●犬をつれた貴婦人
●6号室
 ロシア映画祭にて。
 時代によって国によって、映画のテンポが全然違うということはとても興味深い。
 お国柄、時代柄というものを考察する上で、社会科の教科書よりも勉強になる気がする。
 殆ど寝てたといえばそうなのだけれど、その中でも拾える物は拾って帰れたと思う。
 それにしても、ロシアの女性はまぁぁぁぁぁ綺麗ですよ。

●裏面
 ポーランド映画祭にて。
 時代がそうでなかったら、ヒロインはこんな殺人を犯したりしなかったろう。この殺人は、憎しみとはまた別のところに理由がある。
 何年経っても、必ず殺してしまった相手の墓(?)参りをする姿から、人がとる行動は、例えば表面を観れば憎しみに溢れていそうなものだとしても、裏面、つまり心理としては、必ずしも表と同じとは限らないわけで。

●メトロポリス
 名画座にて。
 未来都市を題材にした、サイレントムービー。
 トーキー以前の作品について、文献などで見聞きしていて、いつか観たい・・・と思っていた矢先、この2010に劇場で見れるという幸運な機会に恵まれた。
 人によって、トーキー以前で映画手法のその殆どは確立されたと論じる人もいるけれど、実際観てみると、わかる気がしてくる。


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▼5位:ウルフマン▼
 人の内に秘めた凶暴な衝動、よそ者を受け入れない”村”という集団。
 そういうものを”狼男”という存在に置き換えて語る。
 台詞、演技、映像、そして「連鎖していく呪い」という結末を迎える物語は、美しい悲劇を作り上げ、僕の心に響いた。

 悩んだ末の5位昇格。
 悲劇の面白さってなんだろう・・・という方に観て欲しい一本。

▼▼4位:マイレージ、マイライフ▼▼
 この作品は人との繋がりを描く。
 繋がりを描くだけで、それが大切かそうでないか、という断定はしない。まさに「up in the air(宙ぶらり)」な結末を迎える。
 人によって、コネクションというものの捉え方は違うが、生きていく過程で、必ずそれは必要になってくる。しかしコネクションを作るのが不得手な人もいる。
 そんな人の為に、この作品はあるのだと思う。
 この作品をきっかけに、誰かと人間関係について話してみようと思えば、もうそこにコネクションが生まれる。
 作品の物語として人間関係を語り、その作り方から、コネクションを生もうとする。
 そういう意図があったように、僕は勝手に思っている。

 すんなり決まった4位。
 観て考えて、行動に移して欲しい一本。

▼▼▼3位:ぼくのエリ、200歳の少女▼▼▼
 人は生きていく課程で、様々な自分に出会う。
 ポジティブ思考の人間と思っていたが実は打たれ弱い面を持っていたり。
 新しい環境に放り込まれたとき、人見知りである自分を知ったり。
 実はものすごく凶暴な感情を持っていたり。
 しかしそれらは自分を形成するパーツであり、否定すべきものではない。一生付き合うべきものである。
 大事なのは受け入れ、制御すること。それが成長と言うものだ。
 まるで自分の感情を具現化したような少女に出会った少年は、ラストで大きな成長を遂げる。
 ヴァンパイア=怪物というものをうまく使い、少年からの成長を描いた、素晴らしい作品。

 即座に決まった3位。
 ジャンル物好きに限らず、観て汲み取って欲しい一本。


▼▼▼▼2位:17歳の肖像▼▼▼▼
 一つは17歳の少女の青春の物語として。
 そしてもう一つは、彼女の周りを取り囲む大人たちを主軸においた、”教育とは?”という問いかけの物語として見れる作品。
 キャリアの道を押し進める教育者、親。
 そんな道を進まなくても、しっかり生きてる”外”の人たち。外の人たちにも、教養が無いわけではない。学校で得られる教養は無いにしても、”自立して生きていく術”を持っている。
 学校の内の人、外の人。将来への疑問を持ち始める多感な時期に、両方を一度に眺めてしまい、では何が正しいのか、少女は悩み始める。そんな彼女を観て、周りの大人たちも気付きはじめる。
 子供は自分の意志で一つの道("AN" EDUCATION)選択することを、大人たちは頑なにならず見守ること・導いてあげることを、それぞれ心がけて、教育というものに望むべきなのでは無いだろうか。

 泣く泣く降格の2位。
 是非、少女の視点だけで終わらず、もう少し広げて観て欲しい一本。

▼▼▼▼▼1位:かいじゅうたちのいるところ▼▼▼▼▼
 人は、何をきっかけに成長するのだろう。
 一つ挙げられることは、「自分を相手の立場に置き換えて考えられる」ということであると思う。
 子供の時。自分が全ての中心で、自分のことしか頭に無かったとき。誰かの言いつけに素直になれなかったとき。
 相手の立場に立ってみる、実際に立ってみなくても、よく考えてみる。そうすると、その言動の裏に潜む真意に気付く。それが第一歩。
 気付くだけでなく、間違いを認め、正すことができる。そこでもう一歩。
 文章にしてみると、一歩一歩のステップが明確になるけれど、実際これまで生きてきた過程で、それを意識したことはまず無いはず。だがそれを知っているのとそうでないのとでは、恐らく生き方が違ってくると思う。自分の子供ができたとき、その接し方も違ってくると思う。
 この作品は、その一歩のステップを寓話として形作り、言葉でなく”かいじゅう”という存在に託し、物語る。
 言葉として直接言ってしまうのは簡単だが、人から与えられた物は、簡単に流れていってしまう。メッセージを映像に漂わせ、気付かせる。自分で気付いた物は、新しい自分を形作る要素となる。
 絵本というものの持つ力を壊さず、さらに飛躍させ作り上げた素晴らしい作品。

 ここ数年で一番悩んだ末の1位。
 多くの人に観て、自分なりの何かを感じ取り、形作っていって欲しい。そんな思いで選びました。


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 ここで総評といきたいところなのですが、実を言うと2010年の真の1位は、とある未公開作品であるため、そちらのまとめ記事をupしてからにします。

梅太@ 2010まとめ:『予告編』編

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 さて、2010年の映画を振り返る第一弾。
 今年も予告編ランキングを付けたいと思います。
 基準は以下の通り。

 ・今年日本国内で上映された作品
 ・洋画の場合、国内版・海外版の違いも考慮に入れる
 ・インターネットやTVCM、つまり”映像媒体”の宣伝は含む

 例年通り、気に留まった予告編を、それなりに冷静にピックアップしていき、最後の今年の大賞を、まぁまぁの熱をこめてご紹介したいと思います。

 では、スタートです。

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●(500)日のサマー teaser trailer(特報)
 何よりナレーションがキモでした。
 「This is not love story, this is a story about love」(これはラブストーリーではなく、愛についての物語である)
 はて、ラブストーリーと、愛についてのお話とどんな違いがあるのだろう・・・?
 台詞も一切無く、あるのは期待を高まらせるナレーションだけと言うのもオツです。
 観ている側の掴み方がうまく、是非観てみたい!という気にさせてくれる、予告編のお手本のような作りです。

 

●かいじゅうたちのいるところ 1st trailer
 「wake up」の、元気が出るけれどどこか切ない印象も受ける曲調に合わせ、作品の世界観を伝えていく。
 特に中盤、走るマックス君を背中から写すショットをポンポン繋ぐところ、かいじゅうたちがただただ暴れているショットを繋ぐところ、子供の持つ爆発しそうなエネルギーをいうのを見事に表現していて、グっときます。



●NINE 1st trailer
 ミュージカル映画の予告編は、基本的に卑怯なくらい良くできていますが、この予告編は台詞を一切入れず、歌に合わせて劇中のミュージカルシーンをもったいぶって短くカットを変えていき、あぁ、これは絶対に観なきゃだめだなぁと思わせます。
 2nd trailerの「cinema italiano」もいいのですが、最初に出てきて衝撃的な印象を与えた1stが、やはり勝ち。

 


●キックアス I am Hit Girl
 これが予告編の第何弾かは忘れてしまいましたが、主人公キックアスを差し置いての単独フィーチャリングなこの予告編は、ヒットガールの魅力を存分に押し込み、アクションシーンも惜しげもなく魅せています。
 ただ惜しいのは、実際作品を見てみると、予告編で魅せすぎたのでは?と、ちょっと思いました。



●マチェーテ

 

 ・・・あ、間違えました。

 こっちがホンモノです。




 豪華な出演人がバカをやる映画の、その予告編ですから、バカさ加減炸裂なのですけれど、そんなところを笑ってあげられる人は、この予告編だけでもお腹いっぱいになると思います。
フェイク予告編の方が、実は好き。


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 さて、栄えある・・・かどうかは置いておきまして、今年の大賞は・・・


 
●マイレージ、マイライフ 2nd trailer





 なぜこの予告編を一位にしたか。
 予告編だけで楽しめる具合からしたら、上気した作品群の方が上なのですが、これは実際の作品鑑賞も通してウマいと思わせる予告編だったからです。

 この予告編を観る限り、とてもハートウォーミングな作品に思えますが、蓋をあけてみると、実はそう一筋縄では行かない作品でして、そういう作品とは思わなかった~と、良い意味で先入観を打ち破ってくれました。

 メディアが発達してきている現代では、いろいろなところで映画の情報を目にすることができ、TV何かを流していると、特に気にしなくても自然と情報が入ってきてしまう時代です。
 劇場へ行くまでに、何の先入観も持たずに・・・というのは、なかなか難しい時代なのかもしれません。
 だったらそれを利用してやるよ!
 あえて先入観を植え付けておいて、裏切る。
 そういう手法だったのかな、と、何となく思うのです。
 褒めすぎかな?勘違いかしら?
 何にせよ予告編での先入観があったからこそ、もっと面白く見れた作品であったことに違いありません。

 堂々の第一位!



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 そんな、2010年の予告編事情でした。
 下半期はあまり予告編をチェックしておらず、僕らしくない感じでありましたが、来年も期待作が多く、ノンビリはしていられません。
 今日から早速、予告編巡りです。