この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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『I'm not there』は08年春に公開された作品。
伝記映画ととれなくもないし、ボブ・ディランという人物をまったくもって知らない人には、単なるオムニバス作品ととられてもおかしくはないのかな。
この作品はボブ・ディランという人物を、6人の俳優が演じるというスタイル。
その6人の俳優と言うのがまた豪華なのです。
放浪者:マーカス・カール・フランクリン
詩人:ベン・ウィショー
革命家:クリスチャン・ベール
映画スター:ヒースレジャー
ロックスター:ケイト・ブランシェット
無法者:リチャード・ギア
いろいろな側面を持つ掴みどころのないボブ・ディランを表現しようとしたのですね。
さて、僕はボブ・ディランという人物をあまり知りません。
ではなぜこの作品を観ようかと思ったか。
予告編のケイト・ブランシェットがあまりにもカッコよかったからさ!!
そしてこの作品を通してボブ・ディランを知ろうと思ったわけでもなく、正直ケイト・ブランシェットの演技が見れれば良かった。
でも、良いインスピレーションを与えてくれたと思う。
ボブ・ディランは確かに、いろいろな側面を持っていると思う。
でもそれは、僕たちにもいえることなのではないだろうか。
大学へ行く僕。
実家での僕。
中学の友達と会っている時の僕。
高専の友達と会っている時の僕。
高専のサークルの人たちと会っている時の僕。
そしてこうして今、ネット上でこの記事を書いている僕。
果たして、どれが本当の僕かと聞かれて、答えられるのか。
どれも自分であり、どれも自分でない(I'm not there)かもしれない。
また、革命家時代までは野心的な印象を受けるが、ロックスター以降というのは、わりと世間に対して無関心な面も見せる。
それは恐らく革命家として奮闘し、そして革命が起こっても変わらない世の中・・・というのを経験したからかもしれません。
では果たして、どれが本当のボブ・ディランなのかと言われると、どうなんでしょう。
彼は有名な人物ではあるけれど、転がる石のように、世間の流れに任せて生きようとした、一人の男ということに変わりはないのかな・・・と感じた。
(ここでいう世間の流れというのは、音楽的なものもあるし、アメリカが辿ってきた歴史というものも含む)
さて、映画の終盤、ケイト・ブランシェット演じるロックスターは、車中でインタビューに答えている。
そこでこんな一言を放ちます。
「歌詞の無意味さこそ崇高なのに」
僕は歌手ではないので、歌手の人がどのように詩を作るのかわからない。
ものすごく重要な意味を含ませている歌詞もあるかもしれない。
でもその意味というのは、人によって捕らえ方が違ってくる。
100人いれば100通りの解釈がある。
ではどれが本当の意味なのかというのは、結局はわからない。
ここでいう無意味とは、本当の意味を追求することなんて無意味なんだと、そういうことを言っているのではないだろうか。
100通りの解釈ができる。人によっていろいろな見方ができる。それこそ、崇高なことなのではないか。
実態をつかめないボブ・ディランという人物を表現した、見事な言い回しであると思いました。
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最後は、わかったようなわからないようなことを書いてしまいましたが、今回僕が言いたいことは結局これ。
ケイト・ブランシェットがカッコよかった!!
"カッコイイ"という言葉がこれだけ似合う女優もそういないだろうな。
ということでケイト・ブランシェットのカッコよさ満載の予告編は↓↓
2008年11月7日金曜日
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