2010年8月22日日曜日

梅太@ DVD:『俺達チアリーダー』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 今日は日本未公開(DVDスルー)映画の紹介。


●スポ根、恋愛、王道展開の気持ちよさ:『俺達チアリーダー
監督:ウィル・グラック
出演:ニコラス・ダゴスト、エリック・クリスチャン・オルセン、サラ・ローマー



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 ストーリーは。

 高校のアメフトチームのモテモテスーパースターの二人組み:ショーンとニック。
 もう校内の美女は喰い尽くしてしまった(?)彼らは、ある日「チアキャンプ」の噂を耳にする。
 そこはもちろん、チア・リーダー達がこぞって集まる合宿の場所。
 そこに眼をつけた彼らは、自校のチア・リーダー部に付き添って、チア・キャンプへと赴くが・・・

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 素晴らしいのは主人公二人組み:ショーンとニックのコンビネーション。
 特に映えるのが会話のテンポで、返しの巧みさ・面白さの絶妙なコンビネーションは、まるで曲にあわせたチアのパフォーマンスを見ているみたいで。
 そんな軽快なテンポを保ったまま、気持ちよく最後まで突っ走る映画です。

 『俺達~』系で、未公開で。
 パッケージからしてもおバカ映画な括りをされてしまっている映画ですが、これは”単なる”おバカ映画ではなく、”極限に”おバカな映画なわけであるけれど、実は青春スポ根、恋愛映画としても王道を貫いていて、実によろし。

 チアキャンプでは最終日に競技会があるのですが、そこで強敵チームを打ち負かそうと励む姿が熱くさせてくれたり、ショーンがアタックするも無関心であったヒロイン:カーリーが、徐々に絆されていく姿は、定番であるが故に素晴らしい。(ツンデレというやつか?)

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 一つ、嬉しくも哀愁漂うシーン。

 チア・キャンプの、夜の野外映画上映があるのですが、そこで流れている映画が、キルスティン・ダンスト(以下K.D.)主演『チアーズ!』なのです。
 『チアーズ!』は、チア・リーダーを真摯に描いた最初で最後の作品だと僕は思います(2や3が製作されたりもしましたが)。
 なので、チアに青春を費やす人々が集まるこのチア・キャンプで流すには、まさにベストチョイス。
 キャンプに参加している人全員が、劇中の印象的な台詞を暗記しているというのも面白かったです。
 バイブル的な扱いなのでしょうか。

 こんなところでK.D.に逢えると思ってなかったのでその嬉しさでいっぱいでしたが、反面「そうか、『チアーズ!』も”こういう”使われ方をするようになったのか・・・」と、時代の流れを感じてしまいました。

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 オススメ未公開作品の一本です。

 オマケで、本作予告編




 と、

 DVD販売に合わせた秀逸な宣伝VTRをご紹介。



 「女をオトす、7つのルール」と題し、劇中のナンパシーンをセレクトした動画。
 アメリカは、コメディ映画に対して真剣ですよね。
 どこまでも笑わせよう、楽しませようという姿勢が見えて、大好きです。

 ちなみに本作の監督:ウィル・グラッグの最新作は、先日『ゾンビランド』(傑作!)にて、極めて遅すぎる日本でのスクリーンデビューを果たした、日本未公開映画界のアイドル的存在:エマ・ストーン主演の『Easy A』です。
 恐らくこれも未公開になるのだろうなぁ。
 でもそんなエマ・ストーンを、僕は今後も追っていきます。

↓↓↓予告編↓↓↓





 間違えました、いや間違えては無いけれど、以下本家予告編。


↓↓↓予告編↓↓↓




 話が逸れました。

2010年8月15日日曜日

梅太@ 劇場:『ネコを探して』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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●変わらない仕草、移ろい行く意味:『ネコを探して
監督:ミリアム・トネロット
主演:世界中のネコと、その周りのヒト

 世界の猫を巡るドキュメンタリー。
 しかしその実、追っているのは人間の歴史や文化であって。
 人間ではない「外の目線」、第三者の視点から見たとき、ヒトはどう写るのか。
 そこがとても興味深かったです。

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 飼っていた黒猫:クロが、突如としていなくなった。
 飼い主は場所を超え、時空を超え、クロを探す。
 クロを追う度、飼い主は様々なネコ、様々なヒトにで会う。
 その出逢いが飼い主の、ネコを観る眼と、そして世界を見る眼を変えていく。

 設定こそファンタジックだけれど、これはネコとヒトを追ったドキュメンタリー映画。
 フランスの女性ジャーナリストがメガホンを取った。

 ここ近年『ヒトとケモノの関わり方、ヒトがケモノに対して持つ思い』というものを考えていた僕にとって、この映画は解決へのヒントを少し、与えてくれたように思います。

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 例えば。

 今も昔も、本能に基づいて生きているケモノにとって、その行動と言うのはまず変わらない。
 食べたければ食べる。
 寝たければ寝る。
 子孫を残し、死んでいく。
 ただ、それだけのこと。
 それだけのことを遠い昔から変わらずやってきたわけである。

 これは考えてやっていることではなく、本能的に行っていることである。

 ただヒトは、思考能力がある。
 ケモノの行動に、ひいてはそのケモノの存在自体に、必ず意味を求める。
 そして導き出した意味を、勝手にケモノに貼り付けては、一喜一憂している。

 これはケモノ目線からしたら、ちょっと迷惑なことではなかろうか。

 本作で題材とされたネコ。
 皆さんは、ネコといわれたときどんなことを思い浮かべるだろうか。
 自由?
 勝手気まま?
 別にネコは考えてそうしているわけではない。
 本能的にそういう風に生きているだけである。

 しかしその生態は、19世紀フランスの社会情勢下では「自由の象徴」として扱われた。
 少し前の時代では、悪魔の化身など「不吉なものの象徴」として扱われていたのに・・だ。
 そして今の時代、特に日本に見られる傾向として、ネコは商業には欠かせない存在であり、またペットブームという事も重なり、「癒し」や「安らぎ」を与える存在として扱われている。

 何度も言うが、ネコの行動は一つとして変わっていない。
 しかし変動する世界情勢、それによって変わるヒトの価値観によって、ネコが行動する「意味」というのは移ろっている。
 が、共通していることが一つあるとすれば、それは「”ヒト”にとって都合の良い意味」が付けられているということなのではないかと思った。

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 それが顕著なのが、商業的な一面が色濃く出ている現代の日本なのだ。
 服を着せたら、ネコが嬉しそうとか。これなんてホント、人間の勝手である。
 また、バウリンガルに対抗したミャウリンガル。
 これで表示される言葉も・・・いや、勿論販売するからにはある程度ネコの生態にあわせているのだろうけれど、この映画で指摘していた一言、

 「ミャウリンガルで表示される言葉に”助けて”はない」

 それはそうだ。
 保健所で泣き喚いているネコにミャウリンガルをつけたら、恐らく助けての連呼になるはず。
 このシークエンスは、保健所でこれから”処理”されてしまうネコたちの映像に重なり、かなり胸に突き刺さった。

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 また、ネコカフェの映像も映し出される。
 ネコカフェではまさに癒しの存在の象徴として、ネコが扱われている。
 やれ、あの子がカワイイだの。
 やれ、あの仕草がカワイイだの。
 (・・・・うん、カワイイのは確かなのだけど)

 ただ、ネコカフェでインタビューを受けていた一組のカップルの言葉は、インパクトが強かった。

 女性の方の、
 「ネコって、子供の時から大人まで、ずっとカワイイじゃないですか。人間はそういうことないので。それってすごいですよね」

 この言葉を受けて、男性が言う。
 「人間って、相手の嫌な面とか見てしまうと、飽きて離れるじゃないですか。そいういうの、ネコにはないですよね」

 心底癒されたその表情から発せられたこれらの言葉は、僕をゾっとさせた。

 それは何故といえば、「人間が今、ペットをどういう風に見ているか」ということを考えてみると分かる。

 ペットに服を着せたり。
 話しかけ方、対応の仕方(健康管理とか)などが、まるでヒトに対して行っているのと同等(もしくはそれ以上?)であったり。
 つまり擬人化というもので、今のヒトたちはネコを、ネコというものを超えヒトとして扱ってしまっている部分がある。

 そう考えた上で、先の言葉をもう一度読んで欲しい。
 これは極めて危ない発言ではないだろうか。
 ヒトとして扱われるネコも、嫌な面を見せられると、飽きられてポイ・・・ということに、なるのではないだろうか。

 いや、なるのではないだろうかなんて、言っていられないかもしれない。
 野良猫の多さ、保健所で”処理”されてしまうネコの多さを考えたら、それは既に始まっているのかもしれない。

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 さて、言いたいことは尽きないのだが、とりあえずここで纏め。

 この作品は数多くのことを考えさせてくれる。何か取っ掛かりを与えてくれる。
 それはネコ単体での話しでなく、ヒトを含めた生き物全体へと、話を昇華できる。

 その中でも僕は、本記事中でも散々言ってきたのでもう飽きたかもしれないが、

・「人間にとって都合の良い意味づけ」
・時代と共に移ろい行く”意味”(ネコは何一つ変わらないのに。。)

 という2点を、とても強く感じたし、考えるキッカケともなった。


 「こういう作品だと思わなかった」

 劇場を出る際、チラと聞こえた一言。
 今のヒトたちがネコに対して求めているもの、そしてこの映画で監督が描きたかったことのズレを感じさせる、ズバリな一言でありました。

 この一言を素直に観客に引き出させただけでも、この作品は成功なのではないでしょうか。

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 ・・・久々にまともにブログ記事書いた気がする。
 いつもどういう風に書いていたか、感覚を若干忘れてしまった僕。
 あと、言葉に落とし込む手法も、なんだか取り戻せてないな。
 やはり定期的に書かねば。

2010年8月8日日曜日

梅太@ 劇場:『劇場版仮面ライダーW Forever AtoZ運命のガイアメモリ』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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●Uの憂鬱/ウソから醒める瞬間:『劇場版仮面ライダーW Forever AtoZ運命のガイアメモリ

 昨年のこと。

 口にするのも若干おぞましい平成仮面ライダーの10作目『ディケイド』の、TV版~劇場版に対する一連の騒動(?)について、僕はかなりキツい批判をした。
 そのとき、言われたことがある。

 「別に子供向けのものなんだし、そこまで突っ込まなくてよくないか?」

 ちなみに誰に言われたかは全く覚えていないのだけれど、言葉だけが引っかかった。

 僕は近年、映画、もしくはサブカルチャー全体に対する思いが強くなれば成る程、仮面ライダーへの不満が募っていく傾向にある。

 映画作りとはつまり、「一つの作品の中に、自分の考えを表現”しきる”」という行為である。

 2時間なら2時間。
 その中で、如何に自分の表現したいことを収めるか。
 そこまで崇高なものでないにしろ、自分のやりたいことをいかにやり切るか。

 「子供向けだから、その辺のバランスを無視してもいい。」
 「どうせそんな部分には気にしないし、大丈夫だろう。」

 そんな妥協を、許せない自分が居る。最近。


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 さて、今日は『仮面ライダーW』の劇場版を観てきました。
 本シリーズは、この10年の歴史を通してみてもズバ抜けた出来の良さを誇っていると思います。
 だからこそ、『ディケイド』で離れた僕の心を繋ぎとめたわけです。
 
 また、よくわからないディケイドとのコラボもようやく終わりを告げたので、単品で巣立つ今回の劇場版を、僕はかなり期待をしておりました。
 

 感想としては・・・・「振り切れなかった!」である。

 いや、正直に言うと。
 途中までの出来は、本当に素晴らしかったと思う。
 100点です。コチラとしては。
 『電王』以来、久々にそう思った。

 TVシリーズからの系譜(つまり、「予備知識的なものが必要」)・・・というマイナス要素を入れ込んでも、それを打ち消すだけの力はある。

 ”特撮”というものが満足すべきたった一つの最低(にして絶対的な)条件をキッチリとクリアしていたし、柄にもなく(いや、いつもどおり?)、燃えてしまった。

 というより泣いた。ちょっと。

 だが、たった一つの異分子により、全てが醒めてしまった。
 他の部分が素晴らしかったが故に、そのシーンの異質さがより際立ってしまっていた。
 醒めた。冷めた。

 全体の流れを完璧にするため、全体のプロポーションを整えるため、そのシーンを削除しようとは、考えないものなのだろうか。

 ・・・・いや、わかる。
 仮にも10年、全てのシリーズを観てきたし、全ての劇場版を観てきているから、そういう展開があることは予想できたし、鑑賞前も「どうせそういうことあるんだろうなぁ」と、薄々感じていた。

 ・・・・うん、わかる。
 確かにファンサービスというものも必要だとは思う。
 ある程度は。

 ・・・・ただ、待ったをかけたい。
 それは、なんというか、”ファン”という存在に頼りすぎてはいないだろうか?
 それで、いいのだろうか。


 仮面ライダー、という枠を超え。
 特撮、という枠を超え。
 一つの”作品”として、形に残そうとは、思わないものなのだろうか。

 最後10分、ずっとそれだけが頭に残っていて、どんなに良いシーンが展開されようとも、その考えが頭から振り切れず、苦虫を齧りながら、劇場を後にした。
 なんだか本当に、絶望が僕のゴールだったかもしれないなぁ。今回は。


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 なんだか最近は、拘りが強すぎて。
 劇場内で、心地よい”ウソ”から醒める瞬間が、ものすごく嫌。

 「気にしなきゃいいじゃん」
 「そこまで考える必要あるの?」

 うん、そうなんだけどね。
 
 でも世の中には、その”ウソ”に終始浸らせてくれる素晴らしい作品も、確かに存在していて。
 そういう作品に数多く出会っていると、こういう粗が、ちょっと嫌。

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 さて、今月でTVシリーズも終わりです。
 どういう結末を迎えるのでしょうか。

 ちなみにTV版で唯一登場しなかったWのマキシマムドライブは、本劇場版で初お目見えいたします。


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 仮面ライダーを本気で考える。
 なんだこの23歳。



 

2010年8月1日日曜日

梅太@ 雑記:『銀座鉄道』の昼

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 以下、某SNSに書き込んだ写真の展示会の感想なのですが、恐らく「”何か”を表現する」という意味で、映画にも精通する(というか、精通させるべき)部分が含まれていますので、コチラにも書いておきます。


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 「写真には物語がある」

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 今日は先輩のご紹介で、銀座はリコーフォトギャラリー:RING CUBEにて開催中の写真展示会『銀座鉄道』に行ってきました。
 (HP ⇒ http://www.ricoh.co.jp/dc/ringcube/event/ginzatetsudo.html)

 感想を書く前に、まず話があらぬ方向に飛びます。

 僕の最上の趣味は映画鑑賞。
 最近は鑑賞後、”観客としての視点”より、”作り手の視点”を意識するようになった。
 (いや、僕は作ってないけれど)

 これは大学での映画の授業の影響や、”芸術”というものはいかなるものか・・というのを、以前友人と話したことも関係している。
 
 友人曰く、

 「芸術とは、自分が発信したいと欲する”ある思い”を、何かしらの媒体を通して表現したもの」

 らしい。
 この言葉は、今でも僕の”芸術”の考え方の主軸になっている。
 これを意識し始めたことが、先に述べた”作り手の視点”を考え始めたことに繋がる。
 そして”作り手の視点”を意識すると、自分がこれまで精通していない分野のものに対しても、初見でもかなり楽しめるようになった。

 例えば。

 昨年初めて観た歌舞伎。
 何の予備知識もなく観にいったわけだけれど、そこから得られるインスピレーションは沢山あった。

 大衆娯楽とはなんぞや?、ということ。
 歌舞伎って、も~~~ったり台詞を言ったりするけれど、それは何故や?ということ。
 見得とは何の意味があるのか?、ということ。
 そして、何故歌舞伎というものは、「このような表現方法」を選んだのか?、ということ。

 いくつか挙げてみて、劇の内容に一切触れてないという部分にお気づきの方もいるかと思いますが、うん、それは御尤もな話で、恐らく僕の今後の課題になるとは思う。

 ただ僕としては、映し出された”そのもの”よりは、その裏にある作者の思いに、思いを馳せるのが好きなのだ。

 それを考えることで、その人と成りが見えてきたり。
 文化が見えてきたり、歴史が見えてきたり。
 そういう楽しみ方が、”今の”僕のトレンドなわけである。
 今後、どうなるかは分からないけれど。

 「作り手は何故、こういう表現をしたのだろう」
 それを考えることが、今の僕の何よりの楽しみなわけだ。

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 ここからやっと、展示会の感想。

 写真”だけ”を長時間眺める機会はなかなかなく、しかも展示会なんて初めてだったので、なにをどうしたらいいのか。
 しかし受付らしい受付もなく(係りの人とかもいなかったし)、気張らずに観れました。
 また外の熱気・喧騒を、室内の冷気・静寂から窓を通して眺めるというのも、楽しかったです。
 六本木に、こんなカフェがあったんだよなぁ・・・話が逸れた。

 入り口には、この展示会のコンセプトが書いてありました。
 恐らく何をするにもコンセプトというのは考えられるだろうけれど、僕はそこを意識するのも好きなのです。
 今回の展示会のように、沢山の写真を飾る場合、見る側の意識をどこへ持っていくかという手助けにもなりますしね。
 特に僕みたいに、普段写真を眺めない人の場合、どこをどう見ればいいかという、一つの指標になります。

 この展示会は、タイトル『銀座鉄道』にあるように、鉄道に関する様々な場面を切り取っていました。

 都会の電車、田舎の電車。
 それらを観ていると、旅をしているように感じられたり。
 新旧モデルの電車をみて、鉄道の歴史を感じられたり。
 また電車そのものではなく、レール、そこで働く人、駅を使用する人の日常風景などを切り取っていたり。
 およそ「鉄道」と聞くと、素人考えでは電車を撮ればいいやと思ってしまいがちです。
 しかしなるほど、周辺を写すことで、電車は孤立しているものでなく生活に密着しているものなのだな・・・と、改めて感じました。

 そしてこの展示会で面白かったのは、やはり複数人の写真が一度に見れる・・・というところでしょうか。
 コンセプトに基づき、「鉄道を撮る」・・・といっても人によって見方は違います。
 周辺の景色を入れ込んで、自分が見たその全体的な雰囲気を切り取る人。
 マクロな視点でモノを見る人。
 レールを写すにしても、晴れの日雨の日で違ったり。
 春夏秋冬があったり。
 撮影者側でも、ツボに入る風景と言うのは違ってきます。

 でも「表現したい何か」が込められていれば、それはやはり素晴らしい芸術作品です。
 以前先輩が、

 「写真は指先一つで作れる芸術作品」

 と言っていましたが、まさにそうだなと。



 ある一つのコンセプトに沿って写真をとっても、その視点や価値観は枝葉のように広がっている。
 なんだか一本の木を見ているみたいで。
 なるほどそれが展示会と言うものか・・と。

 言い過ぎた?

 

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 さて、ここからは僕のディープな世界に入っていきます。

 以前観た映画で、こんな台詞がありました。

 「写真には物語がある」

 ここでまた話を少し逸らしますが、僕は散歩が好きである。
 といっても何を見よう!というわけではなく、唯、その街の雰囲気、その街の”今”の雰囲気を、歩きながらゆっくり感じ取るのが好きなのだ。

 で、長らく散歩してきて思ったことは、

 「”今”を観るということは、同時に”過去”を観ることではないか」

 ということ。

 例えば僕が「いいなぁ」と思った、一軒の家。
 それは僕が観る前から、そこにあったわけだ。
 僕が散歩し、その建物を見た瞬間、急にそこに登場したわけではない。

 僕が今観ているこの建物は”今”の様子だけれど、その”今”にいたるまでの”過去”が、当然のごとく存在するわけで。
 そこを感じ取るのが、僕は好き。

 さて、話を戻そう。

 写真は”今”を切り取るもの。
 例えば一輪の美しい花を、「8月1日 11:30:12」に撮影したとする。
 しかしその花には「8月1日 11:30:11」の姿があったわけで。
 もっと言えば昨日の姿、一週間前の姿(もしかしたら種かもしれないけれど)も、あったはずだ。

 種を植えられ、水を与えられ。
 頑張って芽を出して、光合成して、成長して。
 そしてある日、ある人にその美しさを見出され、撮影された。

 ある瞬間を切り取るのが写真だけれど、その「ある瞬間」に至るまでには沢山の物語があり、その「次の瞬間」から、その花はまた新しい物語を紡いでいく。

 また、その写真を撮った人にも、その花を撮影するまでに様々な物語があったはずだ。
 そしてその物語の途中、ふと眼を奪われ、その花を撮影する。

 よく、

 「同じ写真は二度と撮れない」

 と聞く。
 それは表面的に言えば、光の加減、天候などのことを指すと思うのだけれど、内面的に観ると、僕は、上記したようなことが関係してくるのではないかと思う。

 ある花の物語。
 それを撮影した人の物語。
 それが「8月1日 11:30:12」に、偶然交差し、一つの作品が生み出される。

 それはもう、絶対に撮れない一枚で。

 そして誰かがその写真を見たとき、その写真を観て、その誰かが心打たれたなら。
 きっとその「物語」は、他の人へ伝わり、派生していく。

 そう考えると、写真って何て素敵なものなのだろうと、思えてくる。

 ロマンチックすぎた?




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 結局のところ、写真展の感想は少ししか書いていないですね。
 宣伝にもなりゃしない。まったく。失礼致しました。

 僕みたいに普段写真をじっくりと眺めない、楽しみ方が分からないという方でも、肩の力をフっと抜いて観れる空間ですし(あと冷房効いてますから)、休日を少し使って、訪れてみてはいかがでしょうか。