2011年5月28日土曜日

梅太@ コラボでシネマ:運命と恋

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 朝、目覚ましがなった時、その瞬間に起きるか、もう5分寝るか。朝ご飯は和食と洋食どちらにしようか。
 家を出ると空は曇りで、傘を持っていくかいかないか。
 この会議の決断でyesと答えるか否か。
 夜、本を読んでいて、キリの良いところまで読むか、明日のことを考えて早めに寝るか。
 人一人の人生は幾つもの選択の上に成り立っている。
 そして生きている以上、人との関わり合いは必ず発生していて、相手の人生の中にも幾つもの選択があって、つまりは自分の選択に相手の選択が複雑に絡み合いながら、人生は続いていく。
 
 ふと振り返り、自分が歩んできた道を眺めると、その道には沢山の分岐点があり、それを見てしまうと「あの時こうしていれば」と、人間はどうしても”if”を考えてしまう。あの時別の道を選んでいれば、確かに別の人生があったはずで、それを想像せずにはいられない。
 そして前を見ると、そこに道はなく、これからも沢山の”if”が待ち受けていることだろう。
 しかし、その”if”が既に、誰かに決められていたのなら。自分の気付かぬ内に既に、決められたレールの上を歩んでいたとしたら・・・

 それが、「アジャストメント」という作品。
 この作品の面白いところは「調整局」という存在で、そこに所属する人達は、決められた道から人間がはずれないよう軌道修正をする役割を担っている。先に書いたように、これから歩んでいく道には大小様々な”if”があって、ちょっとしたきっかけで別の道に迷い込んでしまうことだってある。迷い込む前に「こっちだよ」と呼びかけたり、迷い込んでしまった場合は何とかして元の道へ戻る選択肢を構築する。つまり人生というのはそれだけ可能性に満ちているという事で、それを管理しなければいけない調整局の人達には、本当にご苦労様と言ってあげたい。いや、そこではないか。
 主人公はある出来事によって、「既に書かれた筋書き」と、「調整局」の存在を知ってしまう。もちろん回りはそんなことはお構いなしに悠々と生きている。ここがミソだと思いました。気付いてしまって、その人に野心というかそういうものがあったとしたら、抗いたくなるのが人間の性である。心の底から愛する人を見つけ、その人と白紙の人生(unwritten life)を求める主人公と、その出会いは起こってはいけない出来事だったと、調整し修正しようとようとする局。その駆け引きはとてもスリリングであった。

 調整局は日々、人間の道を観察しているが、雨が降るとその能力(?)が使えないという設定は、考えを巡らすと面白い要素だと思った。
 雨が一滴、ポツンと地面に落ちる。それは偶然その場所に落ちたかとそう思うけれど、実は雨はその滴の質量、その日の風向き、その他色々の因子が混ざり合った結果、ある場所に落ちる。一滴が集まり、水流を作る。水の流れも、地面の起伏など沢山の要因でその方向性を決める。つまり雨にまつわる一連の出来事も沢山の”if”があって、恐らくそれが、人間の観察を阻害するのだろう。
 人の人生と、水の流れ。この二つにはどこか共通する物があるのだなと気付かされた。

 そして人生と水の関連性というところで、僕にはもう一つ、思い浮かぶ作品があった。それが「君がぼくを見つけた日」である。
 「君がぼくを見つけた日」は、遺伝子異常でタイムトラベルをしてしまう男と、そんな人に恋をしてしまったある女性のお話。とてもロマンチックな作品だけれど、僕はこの作品については、恋愛的な要素よりも、この作品独自のタイムトラベルの設定に、より惹かれた。(僕はSFが大好きでなのです)
 男はいつでも好きな時代へいけるというわけではない。また自分が関わっていない時代には飛んでいけない。自分の人生の、重要な出来事に惹かれ、その時間へ飛んでいく。しかしその時間に干渉してみると、確かに少しは変化があるかもしれないが、大きな意味で、人生の流れが変わるわけではない。例えば幼少のころ母親を交通事故で亡くした男は、その時間に飛んだとき、何とか阻止しようといつも試みるが、どうあっても防ぐことはできない。愛する人を見つけ、結婚し、いつまでも幸せに暮らしたいと願うが、いつの時間かに起こってしまう自分の事故死を防ぐことはできない。
 例えば川に小石を投げ入れる。大きな大きな川に。その石はポチャンと、小さな波紋を起こすだろう。しかしそれによって川の流れが変わるわけでは決してない。海の入り口、川の終わりへ向かってただただ流れていく。川はその人の歩む道、小石はタイムトラベルをする男。小石程度では流れは、運命は変わることなく、ひたすら終わりへ向かって突き進む。
 オープニングシークエンスの水の表現があるが故に、この作品を見たときも、時間と人生とそして水の関連性を考えずにはいられなくて、この度「アジャストメント」を見たとき、再びその思考が巡った。
 そしてこの二作品で描かれる恋は、対照的であるように感じた。「アジャストメント」は運命に抗う恋、「君がぼくをみつけた日」はどうあっても運命に抗えなかった恋。なるほど、対照的。ただ救いとしては、どちらの恋も、それぞれの形で成就しているということだ。「ブルー・バレンタイン」を見た後だと、救いのある物語というのは心が明るくなるものだと切に感じる。



●この記事で紹介したもの

・「ベンジャミンバトン 数奇な人生」
・「アジャストメント」
・「君がぼくを見つけた日」
・「ブルー・バレンタイン」

 

2011年5月22日日曜日

梅太@ 劇場:メアリー&マックス

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 「アフターダーク」という村上春樹の小説は、主人公の女の子が渋谷のファミレスで深夜に読書をしていると、ある男がいきなり相席してきて、その男と関わったが故に多少のいざこざに巻き込まれるのだけれど、結果的にはとりとめて何も起こらず夜が明けるという作品。
 筋書きだけ読んでも特に興味は惹かれないかもしれないし、内容としても大きなスペクタクルがあるわけでもないけれど、不思議とこの作品は僕の心に引っかかる。

 この物語の中で描かれる出会いは、主人公の女の子と相席した男を別にすると、ほとんどが一過性のものになる。ラブホの店長、暴力を振るわれた少女、コンビニに落ちていた鳴り続ける携帯電話。それぞれの視点に立てば、各々それなりの結末を迎えるのだが、主人公目線に立つと、実は何も解決はしていない。ふとしたきっかけで出会って、通り過ぎるだけのものである。
 ただこの物語を自分の生活に置き換えてみたとき、僕の普段の生活も、気付かぬ内に出会いと別れを繰り返しているということに思い至った。
 例えば電車に乗っていて、自分の隣に座った人がいる。その人にはその人の世界があって、でもたまたま何かのご縁で、とあるタイミングで僕の隣に座る。一瞬、世界が交わる。しかし何もなく、それぞれの道へ向かって歩き始め、世界は離れていく。人でなくても良い。花でも食べ物でも景色でもゴミでも、生きている内は何かに出会い、そして分かれる。

 「メアリー&マックス」という作品は、オーストラリアに住む内公的な少女が郵便局で親を待つ間、暇を持て余して住所録を眺め、「そうだ、この人に手紙を送ってみよう」と思い立ち、行動に移す。その手紙はニューヨークの、これまた余り外向的とは言えない中年男性の元に届き、二人の文通が始まって・・・というものだ。
 この二人の出会いは全て、ふとした思い立ちの積み重ねで成り立っている。
 親と一緒に郵便局に行く。暇を持て余して住所録を読む。ニューヨークって不思議な名前の人が多いねと思う。そうだ、手紙を送ろうとなる。少女の道が、見知らぬ誰かの道と交わろうと、行く先をじわりじわりと変えている。 相手先の中年男性が、「なんだこの手紙は!?」と突っぱねてしまえば、道は交わることはなかった。だが手紙の内容が男の琴線に触れ、少女の好奇心に答えようと、お返事を返す。二つの道は交差を始めた。

 出会ったものに興味を持ち始めると、自分と相手の世界は交差を始め、自分にとって知らなかった道が見えてくる。その交わった道について、進んでいる内はその出会いが自分たちにもたらした大きな影響には気付けないけれど、ふと立ち止まり振り返ってみると、出会う前に歩んでいた道の延長線を歩いているだけでは一生気付けなかったことを教えてくれたりする。全部が良い影響とも限らない。悪いことばかりでもない。また、与えてくれた影響を見落としてしまうこともままある。それでも出会いというのはそれほどに大きなものであって、「へぇ」と一瞥して過ぎ去って行かせるには、余りにも惜しいことなのだ。

 見えるもの・出会うもの全てと付き合うことは、一人の人間のキャパシティとしては難しいことだけれど、でも興味を持ったものとは出来るだけ、付き合いを深めていきたいと思うし、また相手にも、自分に対して興味を少しでも持ってくれたなら、それはとても嬉しいことだと思う。

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 「メアリー&マックス」について、その内容にはほとんど触れておらず、また鑑賞された皆様方においては、全く違った印象を与えられていると思う。
 これは事実を元にした作品で、しかしクレイアニメーションで描かれているが故に、どこか寓話的な雰囲気が流れている。欠点を受け入れて生きていくこと、そんなメッセージを伝える上で、アニメを用いてダイレクトさをグッとと抑えることで、かえって想像の幅は広がっていった。思いを伝えるための表現手法の選定というのはとても難しいと思うが、本作の様にガチっと合ってしまうと、その物語の人に及ぼす影響の可能性は、無限に広がる様に思う。僕にとってこの作品は、交わる二つの道というのを見つめるのに、とても良い影響を与えてくれた。

 良い出会いでした。

2011年5月5日木曜日

梅太@ 劇場:『スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 エドガー・ライト監督最新作『スコット・ピルグリムvs.邪悪な元カレ軍団
 ラモーナ風に訂正するなら邪悪な元”恋人”軍団。 

 ストーリーは。
 バンドのベースを担当する青年:スコット・ピルグリムは、ある日出会った赤毛の女の子:ラモーナに恋をする。彼女をゲットしたい・・・猛烈にアタックを続けるスコットには、しかし大きな壁が立ちふさがる。
 「わたしと付き合いたければ、7人の元カレを倒さなければいけないの」
 スコットは元カレを倒し、ラモーナをゲットする事ができるのか。


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 オマージュ作品とは?

 『魔法にかけられて』というディズニーの映画を見てから、オマージュ作品というジャンルの立ち位置を考えることが多くなった。
 そういう作品を作る人というのは、元となる映画(に限らずだけど)が好きで好きでたまらない!という人で、その思いは、元ネタを知らない・興味がない人をも巻き込み、その良さを伝えてくれることがある。
 『魔法にかけられて』は、ディズニーの世界の住人が、現代のNYに放り込まれたとき、いかにとんちな行動を起こすのか・・・というコンセプトが面白く、しかし確実に異なる二つの世界:現実世界と理想郷を比較することで、ディズニーが昔から作り上げたかった世界とは何だったのかを教えてくれ、ディズニー・プリンセスというジャンルに特に興味の無かった22歳の男性が、劇場でボロボロ泣くという事態に陥ったわけである。

 さて、この『スコット・ピルグリム』という作品は随所にTVゲームをオマージュしたシーンが見受けられる。
 本作を見た後、僕はTVゲームとは一体何なのだろうかというのを考えた。
 今回はRPGに焦点を絞ることにする。

 RPG:ロールプレイングゲームは、ゲーム内で割り当てられたキャラクターを操作し、町の人と接したり敵を倒して経験値を積み上げながら、与えられた課題をクリアしていく。課題をクリアすることでまた経験値を得、ラスボスを倒して終局を迎える。
 すでにそれが体系化されすぎて、ゲームとはそういう物だと割り切ってしまいがちであるけれど、ゲームとはそもそも、現実に起こる出来事の可視化によって生まれた物なのではないか・・ちょっと考えてみる。
 
 現実で、僕は誰かと出会う。話す。
 仕事をして、知識を得る。技術を得る。
 でも「これをして得た経験」とは、具体的な数値として与えられるわけではない。それを可視化したものが、ゲームで言うところの経験値というものだ。
 強い敵であればあるほど、得られる経験値が高い。
 現実に置き換えれば、大変なプロジェクトを達成させたとき、その人はとても大きな経験をしたことになる。それらの経験は、僕たちを次へのステップへ押し上げてくれる。これがレベルアップというやつだ。
 ゲームの要素を一つ一つ紐解くと、実は現実世界と密接に関係している物だと言うことが見えてくる。
 (他人の家のタンスの中から10ギル出てくる・・というのは、どう考えるべきか悩むところだけど)

 もちろん、可視化する事で行為が頭の中で単純化されてしまうという部分もある。
 現実世界はゲームとは違うのよ!と、よくよく親に怒られたりもするが、それはそういうことで。様々な出来事を通じて、少なからず経験値を得てはいるのだけれど、それが具体的に報酬として見えてこないことにイラだってしまう人もいる。

 本作では7人の元カレを倒すことで経験値を得、スコットはレベルアップしていく。いかにもゲーム的。
 けれど現実では、段階こそ明確には見えないけれど、実際何かを達成させるまでには知らないうちに僕たちは段階を踏み、一つ一つを経験して、成長していく。
 現実で起こる出来事:意中の女性をゲットするまでという道のりを、ゲームと絡め合わせることで、ゲームという物が現実世界ではどういう立ち位置にあるのかということを考えさせてくれた。
 
 小さな経験:”何か”を見逃さないこと。

 僕がこの作品で一番見事だと思ったのは終盤、ラスボスにやられてしまい、死の世界(?)で自分を振り返るシーンだ。
 実力としてはラスボスと対等に渡り合える程の力を得ているスコット。ラスボスと戦っている最中に、スコットの元カノが現れ、ラモーナに対しケンカをふっかける。この泥棒ネコ!と。そして女性二人のキャットファイトが始まるのだが、このときラモーナは事情(実は自分と二股をかけられていた)を知らない。ケンカの仲裁に入り真相を打ち明けるスコットは、同時に二人の信頼を失い、戸惑い、一瞬の隙を突かれ、ラスボスの前に倒れる。
 そして場面は代わり、死の世界で、スコットは自分の行動を振り返り、こう言う。

 「あ、何かを学んだ気がする。あ~、生きてればやりなおせるのにな~」

 と。
 僕がこの言葉のどこに惹かれたかと言えば、”何か”という非常に曖昧な表現だ。
 その”何か”具体化させることが、人間が成長していく過程であると思うし、それを具体化させ、自分のものとする行為を積むことで、大人へ近づいていく。
 この”何か”という表現は、どこか子供の持つ曖昧さを感じさせたけれど、形作られていないふわふわした考えを見逃さず、自分の中で形にしていくことが、人間の成長過程では大切なものなのではないかと思う。


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 以前『平成ガメラ三部作』のオールナイト上映での舞台挨拶で特技監督の樋口さんが『ダークナイト』と本作を比較していた。すごく意外な比較であって、でもその時僕の中には引っかかるものがあって、以来色々と考えていた。
 どこまでもリアルに描くことに徹する『ダークナイト』。
 どこまでもリアルを無視する『スコピル』。
 メッセージの重量感が評価された『ダークナイト』は、後の映画に確かに影響を与えた。物事を真面目に語ること。ただその真面目さ・リアルさ・完璧さ故に、僕の中では実は、今一歩両手を広げて最高の作品といえない作品であったわけで。
 そんな作品からすると、かなり軽いノリで見れてしまう『スコピル』は、ちょっと軽視されてしまう部分もあるかもしれないが、軽いノリの中で何か重要なものが潜んでいる。絵本の世界とか、そういうのに近い。

 しかし何か表現したい思いというのはそれぞれあって、それをどう形にするか、という違いでしかない。
 どちらが正しくてという問題ではなくて、ただ、どちらも一つの表現であるということ、同じ土台で比較しても、何ら問題のないこと、ということを、樋口さんは言いたかったのではないかと、過大解釈をしている。

 映画ってこれでいいんだ。
 ということを『スコピル』を見て感じる。

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 予告編を観たときからずっと、どんな作品になるのだろうか・・・というのが気になって気になって仕方なかった。
 同監督の前2作『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』は、全編に散りばめられた幾多の映画へのオマージュに彩られ、使い古されたネタも、加工次第でこんなにも面白くなるのかとただただ笑わせてもらったけれど、それ以上でもなければそれ以下ではなかった。
 いやそれは悪い意味で言っているわけでなく、”純コメディ””純パロディ”としての立ち位置を追求していく監督の姿勢はとても好きで、それこそ映画だろう、と胸が熱くなるシーンが沢山あった。

 本作も、同じである。
 が、ぶっとび過ぎてもはや制御不能な中に、ものすごくうまい部分があったように思う。それはマイケル・セラのキャラクター性と、全国のマイケル・セラ・・いや、全国の青年が迎える恋の場面と、エドガー・ライトの語り口が、絶妙にマッチして生まれたように思う。
 でもエドガー・ライトはどこまで意識してこれを作っているかは分からない。ただハチャメチャにこういうのが作りたかった・・・というのが、実のところなのだと思う。

 その純粋な思いに、本作でもまた胸を熱くし、泣いてしまった。


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 長々と書いてしまい、なんだか重苦しい雰囲気な映画ととられてしまうかもしれないけれど、以下に掲載した予告編の様に、実際のところハチャメチャな映画ですので、劇場で見て、みんなでガハガハ笑ってほしい、この春最高にオススメしたい作品です。

 本年一位も嘘でないかも。


 ↓↓予告編↓↓