この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
●”式”は過去を清算する場所:『ナイト・ビフォア・ウェディング』
監督:マシュー・コール・ウェイス
出演:エイミー・アダムス 他
これは謝るしかない。
思わず唸りました。
世界中がそのキュートさに魅了されたエイミー・アダムスの出世作『魔法にかけられて』で、当然ながら彼女の名前は全国的に知れ渡りましたが、そのネームバリューを利用してタイミング良く輸入・販売された本作。
日本未公開作品。
どうしよう、どうしようと結構悩みまして(少なくとも1年半は悩んでますね)、やっと手に取りました。
パッケージも邦題も、全然魅力的でなかったのですが、これはごめんなさい、素晴らしかったです。
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ストーリーとしては。
明日、結婚を迎えようというマイケル(アダム・ガルシア)とエリース(エイミー・アダムス)。
前夜祭ということで、学生時代の友人が二人の家に集合し、てんやわんやの大騒ぎ。
しかし、実はこの仲間達の関係は複雑で、一つ屋根の下、すんなり一夜を明かせるわけも無く・・・
▼▼▼▼▼▼
ナイト・ビフォア・ウェディング。
結婚前夜。
式の為に集まった学生時代の仲間達は、現在は各々自分の道を歩んでいるが、どこかあの時代のことを意識してしまっている。
あの時代の出来事がトラウマになってしまっている者もいる。
トラウマを与えてしまい、それがずっと気がかりであった者もいる。
あの時代の恋愛から先に勧めない者もいる。
あの時代から関係を続け、自分たちもそろそろ結婚を考える者もいる。
その結婚へしっかりした返事を出来ない者もいる。
そして、明日結婚を迎える者もいるが、二人にはまだ共有できていない秘密がある。
明日は結婚式というめでたい日であるのに、何とも慌しいメンバーであるが、式が近づくにつれ、各々過去を清算していく。
思えば人生の中で、”式”と呼ばれるものは沢山ある。
入学式、卒業式、成人式、結婚式、入社式、退社式。
人間は、あるタイミングでこれまでの過去を振り返り、一度ピリオドを打つことが必要であると思う。
経験してきた全てを常時意識するのは不可能で、縛られていては、まだまだ続くこの先の人生に100%の力で挑むことは出来ない。
だから、ある節目で、ピリオドを打つ。
あとで思い返すのは個人の自由としても、一度終わりを告げ心の整理をつけることは、必要なことであると思う。
式、というものは、それをある意味強制的に行わせてくれる行事であると思う。
精神的なところでね。
社会的な位置づけというところでは、式の意味合いは違うかもしれないけれど。
▼▼▼▼▼▼
「明日は式で、せっかく皆集まるのだから、何かしらの決着を」
として集まった仲間達が、焦り、悩む姿が描かれる中盤まではとてもコミカルで面白く、そして各々のピリオドが描かれる終盤は、意外な程にサラっと描く。
ピリオドを打った結果、それが自分にとって必ずしもハッピーエンドというわけでない人もある。
それでも、学生時代から続いた彼らの慌しい関係に、一つの節目が出来たわけだ。
ここまでも十分に面白かったのだけれど、この後、僕が唸ったラストが待っている。
そこには、御伽噺で描かれる結婚式とは別の形の素晴らしさがあった。
現実は、Happily ever after.ではないのだ。
結婚をすれば、彼らにはピリオドのその先が待っている。
仲間達にも、各々の人生が待っている。
その”始まり”を予感させるラストの描き方は、拍手したいくらいであった。
実際したけど。
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過去を清算する。そして新たな生活へ望む。
というところでは、エイミー・アダムスと、愛すべきエミリー・ブラントが共演した『サンシャイン・クリーニング』に似ているところもありますね。
ハトに、花輪を贈りたい相手の名前だけ告げれば間違いなく届けられるということを教えてくれた『魔法にかけられて』以来、エイミー・アダムスの出演作は新旧問わずチェックしています。
暫定、『ジュリー&ジュリア』が圧倒的に1位で、次点が『魔法にかけられて』であるけれど、その次に位置づけてもいいくらい、良い作品でした。
ちなみに原題は『Standing Still』。
静止状態、とか、バランスをとっている、という意味になるみたいです。
登場人物たちの関係を表していていいですね。
でも今回は『ナイト・ビフォア・ウェディング』でも、十分意味は通じる気がしました。
「色使いとか枠の描き方とか、思いっきり『魔法にかけられて』を意識してるやんけ!!」という感じのパッケージに渋っていた人は、そのお気持ちは十分お察し致しますが、是非手にとって欲しいと思います。
2010年9月26日日曜日
2010年9月22日水曜日
梅太@ 雑記:肖像と想像。騒々しい中での発見。 ~『ポーランドの至宝』 in 東京富士美術館~
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
以下、映画の内容とは直接的には関係ありません。
が、映画についてちょっと触れている部分もありますので、掲載します。
法に触れるわけでもないので、ご勘弁を。
ただ、映画もやはり”表現媒体”の一つであるので、他の分野の媒体を見るのも、良い刺激になります。
==============
『ポーランドの至宝』
東京富士美術館にて。
祝日に行ったのですが、すごい混みよう。
大人はともかくとして、子供が多いのにちょっと驚いた。
特別展示と常設展示が一括料金で観れるのは良心的でした。
-----------------------
まずは常設展示から・・・
▼▼▼▼▼
『西洋絵画コレクション』
最初の部屋で、肖像画に囲まれる。
顔を正面から捉えたもの、横顔、俯き顔。
一口に肖像画といっても、描き方は様々であることに気付く。
当たり前といえば当たり前だけれど、これだけ一度に見せられると、嫌が応にも、「なぜ違うの?」ということを考えてしまう。
ここから僕の思考タイムが始まる。
ある人を、キャンパスに描こうとする。
恐らく画家は、その被写体の一番魅力的な姿勢を捉えようとする。
俗な言い方をすれば、画家の「あ~、その姿勢”ツボ”だわ~」という思いのもとに描かれる。
この”一番”は勿論主観で、他の人が描こうとすると、きっと別の姿勢で描かれるのだと思う。
正面、横、という姿勢の他に、「何かをしている時」を捉える絵もある。
例えば本を読む女性を美しいと思ったとき。
恐らくその女性は、普段から本を読んでいる人だと思う。
最近、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本を読んでいて、「美しいとは、合理的だということと同義である」という記述があった。
この著書で例に挙げているのは、スポーツ選手のフォームである。
毎日の努力の結果、選手のフォームは完成するのだが、そこには無駄な力は一切無く、ただ良い球を繰り出そうという一つの目的の為に体が合理的な動き方をする・・・とある。それを人は、美しいという。
これは成る程と思った。
例えば映画でも、今回は野球選手の役をやります!となったとして。
訓練を重ね、それっぽいところまでは辿りついても、やはりどこかプロとの差異を感じてしまうときもある。
(これを感じさせないのがプロの役者であり、プロの編集技術だと思うけれど)
やはり合理的な美しさというのは、日々の”慣れ”から生まれてくるものなのだと思う。
だから、他者が見て「あ、あの人の本を読んでいる姿、素敵だな」と感じたときは、恐らく普段から、その人は本を読んでいるはずだ。
その人は、本を読むのに合理的な姿勢、所作をしているからこそ、素敵だと思わせるのだ。
表現者という所に話を戻すと。
画家が「あ、これはいい」と思った被写体を絵として形にしようとしたときに、その表現の方法は沢山ある。
それがいわゆる、絵の「タッチ」の違いというものなのだと思う。
よく、絵を評価するときに「タッチがどうこう」というワードを聞く。
特に絵画に精通していない僕としては、双子の兄弟が南とどうこうという話しか浮かばなかったが、今日、その認識を改めた。
画家がそれを見たときの印象を”どう”表現しようかと考えたとき、絵のタッチが決まってくるのだと思う。
手法の如何に意味を求めるのではなく、「何故この画家はこのように描いたのか」というところに思考を持っていくと、かなり面白く見えてくる。
字もそうらしい。
何を表現しようか、その文字にどんな願いを込めるかで、書体が変わる。
歌舞伎の看板などに使われる勘亭流という書体は、線と線の隙間が極端に少ない。
これは客席が埋まりますように・・・という願いを表現するために生まれた書体だという。
絵画でいうところの、タッチに繋がる。
肖像画に話を戻して。
顔を描く際、シワや肌の質感・色合いを細かに描いているのもあれば、のっぺりした描き方もある。
のっぺりした人は、多分、その生活が非常に緩慢な人なのだと思う。
それをどう、キャンパスに描こうか・・・となったとき、シワなどの細部は捨て、ただのっぺりと描く。
細かに描くことこそが、その人を完全に再現することではないのだなと。
そんな絵は、見る側に「あ~、きっとこの人はこういう人だったんだろうなぁ」と思わせる。
ここまでの総括として。
被写体の魅力を引き出そうとするために、絵を描くための手法がある。
先に例に挙げた本を読む女性は、この二つが美事に掛け合わされていたように感じる。
元々、本を読む女性を見ているのは好きな僕ですが、普段そうは思わない人でも、この絵を見たときはきっと「素敵」と思うのだと思う。
それこそが画家の力であり、その魅力を伝えたいとする、画家の情熱なのだと、思いました。
▼▼▼▼▼▼
箸休め。
完全に余談だけれど、僕は横顔が好きです。
いや、aikoの話ではなくね。
せっかくだから、顔繋がりの話でひとつ。
最近、自分で撮った人物写真を見返したのだけれど、正面を向いてる写真は少なかったですね。
意識してるつもりはないのだけれど。
これが好みというものなのでしょうか。
何の影響かと言えば、映画の観過ぎなのかなぁ。
映画の登場人物って、例えカメラ目線であったとしても”僕”を観てるわけではないですからね。
でも、その姿にグっと来ることが多かったこの7年間が、写真に現れてるのかな。
▼▼▼▼▼▼
話は戻しますが、まだ常設展示の話。
冒頭で書きましたが、今日はかなり混んでいて、小部屋では遠くから眺めるしかないというところもあったりしました。
しかし、それが功を奏すことになるとは。
小部屋に入り、遠めに観たとき綺麗と思った絵が、苦労して眼の前に出てみると、線も色の境界もぼけ、なんだかわからないものになっている絵があった。
成る程。
美術館となると、ある程度近接して絵が見れる機会とあって、喰い入るように見つめてしまうのが常だけれど、絵を見るのも、適切な距離というのがあるのだなと思った。
勿論美しいと思うその距離は人それぞれだし、画家もそれを想定しているのかわからないけれど、僕はそう思った。
僕は最近、映画を観るとグっと考え込んでしまう時がある。
あの台詞の意味は?
あの描写の意味は?
ミクロな視点に惑わされ、わからなくなってしまう場合もある。
しかし、そんなときは一歩二歩、引いて見て、全体像を眺めてみると、そのミクロは全体を構成する要素の一つに過ぎないことに気付く。ただしそのミクロを抜いてしまうと、全体像が崩れてしまう。
全が個を成し、個が全を成す。
常に意識すべきところだなと感じました。
混んでいるからこそ気付けた点。
怪我の功名、不幸中の幸い。
▼▼▼▼▼▼
さて、特別展示『ポーランドの至宝』
実をいいますと、僕は常設展示で結構疲れてしまったのです。
メインはこちらなのに。
おいしいものを後に残しておく性格が仇になりました。
そして流石に企画ものとあって、混んでる混んでる。
しかし今日は何の日?といえば、お年寄りを大切にしなければいけない日であり、前のおじい様おばあ様を急かす訳には行かない。でも並ぶ体力が・・・
そんなわけで、広告にも載せられていたレンブランドのモナリザだけはしっかりと観て、あとはスルスルと行くことにしました。
レンブランドのモナリザは、『額縁の中の少女』というタイトルの絵で。
キャンパスの枠の部分に、すでに額縁が描かれているのですよね。
でもその絵は額縁の中に入っているわけです。
2重の額縁。
これは、笑いを誘っているのでしょうか?
そういう不謹慎な考えを持つのは、僕だけですかね。
-----------------
結局のところ、展示会も感想も、前菜で満足してしまいました。
メインのこの扱い、ご勘弁を。
『銀座鉄道』はスペースも小さく、それでも多少疲れましたが、本格的な美術館ともなると敷地が比較にならず、披露も倍増。
でも、精神的にはとても充足した感じで、良い疲労感です。
次は国立新美術館で『陰影礼讃』を観る予定。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
以下、映画の内容とは直接的には関係ありません。
が、映画についてちょっと触れている部分もありますので、掲載します。
法に触れるわけでもないので、ご勘弁を。
ただ、映画もやはり”表現媒体”の一つであるので、他の分野の媒体を見るのも、良い刺激になります。
==============
『ポーランドの至宝』
東京富士美術館にて。
祝日に行ったのですが、すごい混みよう。
大人はともかくとして、子供が多いのにちょっと驚いた。
特別展示と常設展示が一括料金で観れるのは良心的でした。
-----------------------
まずは常設展示から・・・
▼▼▼▼▼
『西洋絵画コレクション』
最初の部屋で、肖像画に囲まれる。
顔を正面から捉えたもの、横顔、俯き顔。
一口に肖像画といっても、描き方は様々であることに気付く。
当たり前といえば当たり前だけれど、これだけ一度に見せられると、嫌が応にも、「なぜ違うの?」ということを考えてしまう。
ここから僕の思考タイムが始まる。
ある人を、キャンパスに描こうとする。
恐らく画家は、その被写体の一番魅力的な姿勢を捉えようとする。
俗な言い方をすれば、画家の「あ~、その姿勢”ツボ”だわ~」という思いのもとに描かれる。
この”一番”は勿論主観で、他の人が描こうとすると、きっと別の姿勢で描かれるのだと思う。
正面、横、という姿勢の他に、「何かをしている時」を捉える絵もある。
例えば本を読む女性を美しいと思ったとき。
恐らくその女性は、普段から本を読んでいる人だと思う。
最近、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本を読んでいて、「美しいとは、合理的だということと同義である」という記述があった。
この著書で例に挙げているのは、スポーツ選手のフォームである。
毎日の努力の結果、選手のフォームは完成するのだが、そこには無駄な力は一切無く、ただ良い球を繰り出そうという一つの目的の為に体が合理的な動き方をする・・・とある。それを人は、美しいという。
これは成る程と思った。
例えば映画でも、今回は野球選手の役をやります!となったとして。
訓練を重ね、それっぽいところまでは辿りついても、やはりどこかプロとの差異を感じてしまうときもある。
(これを感じさせないのがプロの役者であり、プロの編集技術だと思うけれど)
やはり合理的な美しさというのは、日々の”慣れ”から生まれてくるものなのだと思う。
だから、他者が見て「あ、あの人の本を読んでいる姿、素敵だな」と感じたときは、恐らく普段から、その人は本を読んでいるはずだ。
その人は、本を読むのに合理的な姿勢、所作をしているからこそ、素敵だと思わせるのだ。
表現者という所に話を戻すと。
画家が「あ、これはいい」と思った被写体を絵として形にしようとしたときに、その表現の方法は沢山ある。
それがいわゆる、絵の「タッチ」の違いというものなのだと思う。
よく、絵を評価するときに「タッチがどうこう」というワードを聞く。
特に絵画に精通していない僕としては、双子の兄弟が南とどうこうという話しか浮かばなかったが、今日、その認識を改めた。
画家がそれを見たときの印象を”どう”表現しようかと考えたとき、絵のタッチが決まってくるのだと思う。
手法の如何に意味を求めるのではなく、「何故この画家はこのように描いたのか」というところに思考を持っていくと、かなり面白く見えてくる。
字もそうらしい。
何を表現しようか、その文字にどんな願いを込めるかで、書体が変わる。
歌舞伎の看板などに使われる勘亭流という書体は、線と線の隙間が極端に少ない。
これは客席が埋まりますように・・・という願いを表現するために生まれた書体だという。
絵画でいうところの、タッチに繋がる。
肖像画に話を戻して。
顔を描く際、シワや肌の質感・色合いを細かに描いているのもあれば、のっぺりした描き方もある。
のっぺりした人は、多分、その生活が非常に緩慢な人なのだと思う。
それをどう、キャンパスに描こうか・・・となったとき、シワなどの細部は捨て、ただのっぺりと描く。
細かに描くことこそが、その人を完全に再現することではないのだなと。
そんな絵は、見る側に「あ~、きっとこの人はこういう人だったんだろうなぁ」と思わせる。
ここまでの総括として。
被写体の魅力を引き出そうとするために、絵を描くための手法がある。
先に例に挙げた本を読む女性は、この二つが美事に掛け合わされていたように感じる。
元々、本を読む女性を見ているのは好きな僕ですが、普段そうは思わない人でも、この絵を見たときはきっと「素敵」と思うのだと思う。
それこそが画家の力であり、その魅力を伝えたいとする、画家の情熱なのだと、思いました。
▼▼▼▼▼▼
Carey Mulligan in 『An Education』(17歳の肖像)
箸休め。
完全に余談だけれど、僕は横顔が好きです。
いや、aikoの話ではなくね。
せっかくだから、顔繋がりの話でひとつ。
最近、自分で撮った人物写真を見返したのだけれど、正面を向いてる写真は少なかったですね。
意識してるつもりはないのだけれど。
これが好みというものなのでしょうか。
何の影響かと言えば、映画の観過ぎなのかなぁ。
映画の登場人物って、例えカメラ目線であったとしても”僕”を観てるわけではないですからね。
でも、その姿にグっと来ることが多かったこの7年間が、写真に現れてるのかな。
▼▼▼▼▼▼
話は戻しますが、まだ常設展示の話。
冒頭で書きましたが、今日はかなり混んでいて、小部屋では遠くから眺めるしかないというところもあったりしました。
しかし、それが功を奏すことになるとは。
小部屋に入り、遠めに観たとき綺麗と思った絵が、苦労して眼の前に出てみると、線も色の境界もぼけ、なんだかわからないものになっている絵があった。
成る程。
美術館となると、ある程度近接して絵が見れる機会とあって、喰い入るように見つめてしまうのが常だけれど、絵を見るのも、適切な距離というのがあるのだなと思った。
勿論美しいと思うその距離は人それぞれだし、画家もそれを想定しているのかわからないけれど、僕はそう思った。
僕は最近、映画を観るとグっと考え込んでしまう時がある。
あの台詞の意味は?
あの描写の意味は?
ミクロな視点に惑わされ、わからなくなってしまう場合もある。
しかし、そんなときは一歩二歩、引いて見て、全体像を眺めてみると、そのミクロは全体を構成する要素の一つに過ぎないことに気付く。ただしそのミクロを抜いてしまうと、全体像が崩れてしまう。
全が個を成し、個が全を成す。
常に意識すべきところだなと感じました。
混んでいるからこそ気付けた点。
怪我の功名、不幸中の幸い。
▼▼▼▼▼▼
さて、特別展示『ポーランドの至宝』
実をいいますと、僕は常設展示で結構疲れてしまったのです。
メインはこちらなのに。
おいしいものを後に残しておく性格が仇になりました。
そして流石に企画ものとあって、混んでる混んでる。
しかし今日は何の日?といえば、お年寄りを大切にしなければいけない日であり、前のおじい様おばあ様を急かす訳には行かない。でも並ぶ体力が・・・
そんなわけで、広告にも載せられていたレンブランドのモナリザだけはしっかりと観て、あとはスルスルと行くことにしました。
レンブランドのモナリザは、『額縁の中の少女』というタイトルの絵で。
キャンパスの枠の部分に、すでに額縁が描かれているのですよね。
でもその絵は額縁の中に入っているわけです。
2重の額縁。
これは、笑いを誘っているのでしょうか?
そういう不謹慎な考えを持つのは、僕だけですかね。
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結局のところ、展示会も感想も、前菜で満足してしまいました。
メインのこの扱い、ご勘弁を。
『銀座鉄道』はスペースも小さく、それでも多少疲れましたが、本格的な美術館ともなると敷地が比較にならず、披露も倍増。
でも、精神的にはとても充足した感じで、良い疲労感です。
次は国立新美術館で『陰影礼讃』を観る予定。
2010年9月12日日曜日
梅太@ 劇場:名画座日記-9
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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名画座日記-9
早稲田松竹にて、『CHICAGO』と『NINE』、ロブ・マーシャル監督2連作を観て来ました。
今日はとりあえず、『CHICAGO』のみについて書きます。
が、内容と言うよりは、思い出話・・・
率直な感想は、最初の5行を読んで頂ければ十分です。
---------------------
もう、一生ものの思い出です。
どんな宝石よりも煌びやかに光る一日。
この日を忘れることは、生涯無いだろうと思います。
この気持ち、お墓までもって行きます。・・・これは意味が違うかな。
再映にこぎつけてくれた全ての人に感謝。
▼▼▼▼▼
僕が映画を沢山観始めたのは、2004年から。
その年から、劇場に多く足を運び、そしてこれまで見逃していた作品を観るため、レンタルショップにも多く足を運びました。
(学生の頃は今みたいに、「DVD1000円だし、買っちゃえ」とはならなかった)
思えばこの頃がむしゃらに、ジャンルを選ばず沢山の作品を観たことは、今の自分の基盤になっていると思います。
さて。
劇場公開を逃して惜しい思いをした作品は数多くありましたが、本気で悔しいと思った作品が一つあった。
自宅でDVDにて鑑賞し、その素晴らしさに驚喜したと同時に、歯がゆい思いをしたのを今でも覚えています。
これを劇場で観れたなら、僕の映画人生の、ある一つのパートが完結すると言っても過言ではないくらいの作品。
That's "CHICAGO"・・・それが、『CHICAGO』でした。
それがこの度、劇場で観れるというではないですか。
どんな予定をも差し置いて、この日を空け、待ちました。
(実際のところ、何の予定も無かったのですが)
作品の素晴らしさも勿論ですが、取り巻く環境(劇場や観客の状況etc)の、その全てが宝物のような気がしました。
▼▼▼▼▼▼
さて、幕が上がる。
大写しになる瞳。
カウントアップで始まる『All That Jazz』で、まず驚喜。
『Cell Block Tango』、こんなにも力強かったのかと思い知らされる。
ロブ・マーシャルのミュージカル映画の、そのミュージカルシーンに登場する女性達は、ほぼセクシーな格好をしている。
これは尊敬するボブ・フォッシーの影響も大であることは、『オール・ザット・ジャズ』(これは映画ね)を観た後だとわかる。
肉体本来の持つ力強さ・迫力というのは、エロさを超えてカッコイイとさえ思うし、やはりそこに官能さが加わり、ドキドキワクワクが収まらない。
・・・女性はどう見るのかわからないけれど。
さて本編に話を戻す。
『We Both Reached For The Gun』、リチャード・ギアのナンバー。
マリオネットを取り入れたコミカルなパート。
後半で糸を操っているギアの姿が映され、記者を話術で煙に巻き、自分の手の内で踊らせている・・・という状況とマッチしていて、ここもとても大好きなシーン。
『Roxie』、鏡を用いた幻想的なステージ効果に陶酔する。
これは”映画”でしか表現できないだろう、どこまでも”ミュージカル映画”を楽しませようとするマーシャルの工夫に拍手。
ジョン・C・ラリーの『Mister Cellophane』は、劇中最も静かで目立たないところが、曲のタイトルに重なっていて笑いを誘う。
でも哀愁漂っていて、何故か頭に残り、見逃せないナンバー。
さてさて、Ladies and Gentlemen.
世にも珍しい、元囚人の二人組みが贈ります、お待ちかねのこのナンバー。
『Nowadays』から緩やかに始まり、テンポアップで魅せる、キャサリン・ゼタ=ジョーンズとレニー・ゼルヴィガーの怒涛のパフォーマンス。
唇と、そして幸福を噛み締め、ただひたすらに画面に喰いつく。
そう、このシーンの為に、僕は滅多に座らない一番前の座席に座ったのです。
僕とスクリーンの間を隔てるものは何も無く。
ダイレクト伝わってくる映画の感動。
もう涙が止まらない。
I can't stop the BEAT !!・・・あ、これは違う映画だ。
もうホント、この場に立ち会えて、この時間ばかりは、僕は世界で一番の幸せモノだと思っていた。
そしてこの時ばかりは、映画はこれ以外何もいらないとすら思ってしまった。
もう最高だ、人生ハッピーだ。
------------------
冷静に見つめてみると・・・いいや、その話はまた今度にしよう。
恐らく今後も、何度かDVD(帰りにBlu-ray買っとけば良かった)を見返すことになるかと思いますし、10月に企画されている『おすぎチョイス』にも足を運ぼうと思ってますが、今日と言う日には勝てそうに無い。
何度も言ってしまっているようで、若干言葉の効力を失いつつありますが。
締めとしてもう一度言わせてください。
一生ものの宝物です。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
名画座日記-9
早稲田松竹にて、『CHICAGO』と『NINE』、ロブ・マーシャル監督2連作を観て来ました。
今日はとりあえず、『CHICAGO』のみについて書きます。
が、内容と言うよりは、思い出話・・・
率直な感想は、最初の5行を読んで頂ければ十分です。
---------------------
●『CHICAGO』
もう、一生ものの思い出です。
どんな宝石よりも煌びやかに光る一日。
この日を忘れることは、生涯無いだろうと思います。
この気持ち、お墓までもって行きます。・・・これは意味が違うかな。
再映にこぎつけてくれた全ての人に感謝。
▼▼▼▼▼
僕が映画を沢山観始めたのは、2004年から。
その年から、劇場に多く足を運び、そしてこれまで見逃していた作品を観るため、レンタルショップにも多く足を運びました。
(学生の頃は今みたいに、「DVD1000円だし、買っちゃえ」とはならなかった)
思えばこの頃がむしゃらに、ジャンルを選ばず沢山の作品を観たことは、今の自分の基盤になっていると思います。
さて。
劇場公開を逃して惜しい思いをした作品は数多くありましたが、本気で悔しいと思った作品が一つあった。
自宅でDVDにて鑑賞し、その素晴らしさに驚喜したと同時に、歯がゆい思いをしたのを今でも覚えています。
これを劇場で観れたなら、僕の映画人生の、ある一つのパートが完結すると言っても過言ではないくらいの作品。
That's "CHICAGO"・・・それが、『CHICAGO』でした。
それがこの度、劇場で観れるというではないですか。
どんな予定をも差し置いて、この日を空け、待ちました。
(実際のところ、何の予定も無かったのですが)
作品の素晴らしさも勿論ですが、取り巻く環境(劇場や観客の状況etc)の、その全てが宝物のような気がしました。
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さて、幕が上がる。
大写しになる瞳。
カウントアップで始まる『All That Jazz』で、まず驚喜。
『Cell Block Tango』、こんなにも力強かったのかと思い知らされる。
ロブ・マーシャルのミュージカル映画の、そのミュージカルシーンに登場する女性達は、ほぼセクシーな格好をしている。
これは尊敬するボブ・フォッシーの影響も大であることは、『オール・ザット・ジャズ』(これは映画ね)を観た後だとわかる。
肉体本来の持つ力強さ・迫力というのは、エロさを超えてカッコイイとさえ思うし、やはりそこに官能さが加わり、ドキドキワクワクが収まらない。
・・・女性はどう見るのかわからないけれど。
さて本編に話を戻す。
『We Both Reached For The Gun』、リチャード・ギアのナンバー。
マリオネットを取り入れたコミカルなパート。
後半で糸を操っているギアの姿が映され、記者を話術で煙に巻き、自分の手の内で踊らせている・・・という状況とマッチしていて、ここもとても大好きなシーン。
『Roxie』、鏡を用いた幻想的なステージ効果に陶酔する。
これは”映画”でしか表現できないだろう、どこまでも”ミュージカル映画”を楽しませようとするマーシャルの工夫に拍手。
ジョン・C・ラリーの『Mister Cellophane』は、劇中最も静かで目立たないところが、曲のタイトルに重なっていて笑いを誘う。
でも哀愁漂っていて、何故か頭に残り、見逃せないナンバー。
さてさて、Ladies and Gentlemen.
世にも珍しい、元囚人の二人組みが贈ります、お待ちかねのこのナンバー。
『Nowadays』から緩やかに始まり、テンポアップで魅せる、キャサリン・ゼタ=ジョーンズとレニー・ゼルヴィガーの怒涛のパフォーマンス。
唇と、そして幸福を噛み締め、ただひたすらに画面に喰いつく。
そう、このシーンの為に、僕は滅多に座らない一番前の座席に座ったのです。
僕とスクリーンの間を隔てるものは何も無く。
ダイレクト伝わってくる映画の感動。
もう涙が止まらない。
I can't stop the BEAT !!・・・あ、これは違う映画だ。
もうホント、この場に立ち会えて、この時間ばかりは、僕は世界で一番の幸せモノだと思っていた。
そしてこの時ばかりは、映画はこれ以外何もいらないとすら思ってしまった。
もう最高だ、人生ハッピーだ。
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冷静に見つめてみると・・・いいや、その話はまた今度にしよう。
恐らく今後も、何度かDVD(帰りにBlu-ray買っとけば良かった)を見返すことになるかと思いますし、10月に企画されている『おすぎチョイス』にも足を運ぼうと思ってますが、今日と言う日には勝てそうに無い。
何度も言ってしまっているようで、若干言葉の効力を失いつつありますが。
締めとしてもう一度言わせてください。
一生ものの宝物です。
2010年9月1日水曜日
Blogtitle更新:『Reservoir Dogs』(ブログ二周年記念)
タイトル部画像、更新しました。
本日2010.9.1を持ちまして、我らがブログ『映画好きの二人』は、開設から丸2年となりました。
このページも風変わりし、新たなカテゴリーが生まれたり、お互いの映画に対する考え方が変わってきたり・・・
色々変化はありましたが、そんな私達を常に原点に返してくれる『管理人の関係(イメージ)』に使用している画像:『Reservoir Dogs』に敬意を表し、1周年記念に続き、今回も作ってみました。
今年は互いに忙しかったり、また、のめり込みすぎて感想が纏められない作品が多かったりで、記事数を中々増やせないでいますが、色々工夫して、皆様に我々の”映画への愛”を伝えられたらと思っております。
最後になりましたが、こんな言いたい放題なブログでも、時々チェックしてくれている読者の皆様、そして元気を頂ける様なコメントを下さった方々、感謝感謝です。
今後も日々邁進してまいります。
なにとぞよろしくお願いいたします。
では、
Just keeps on truckin'!
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