2010年4月25日日曜日

梅太@ 劇場:『ソラニン』

この記事は 惜しいなぁ・・・と思う 梅太 の名の下にお送りいたします

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●歌詞は媒体である。読み取るべきは・・・:『ソラニン
監督は三木孝浩。
出演に宮崎あおい、高良健吾。

 久々の邦画鑑賞。
 キッカケは、『Bar NOI』のマスターとの会話から。
 あと予告編を観て、宮崎あおいが歌ってる姿が素敵だったから。

 以下、いつもの通り勝手な妄想も多少入れ込んで感想を書いていこうと思う。

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 ストーリーは。
 OL2年目の芽衣子と、フリーターの種田は、大学時代の軽音サークルで知り合い、現在同居している。
 仕事に対してやりがいを見出せない芽衣子、日々の生活に不安を感じる種田。
 共に、この先の人生に対して焦りを見せていた。

 種田はフリーターを続ける一方、音楽への思いを諦め切れていなかった。
 ある時種田は、バンドメンバーに、「本気で一曲作ってみたい」と提案する。

 本気で音楽に取り組む種田。
 それを観て支える芽衣子。

 何だか人生、前に進んでいる様な気がしていたが・・・

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 冒頭。

 「とにかくあの頃の空は、なんだかすっごく広かったんだ」

 自然の見え方・切りとり方というのは、年代によって違うものだ。
 そして万人とは言わずとも、どこか共感する部分はあるものだ。

 そういうものを表現した、お見事な台詞。

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 さてここから本題。

 ロックとは、生き方であり、考え方である。
 そしてロックの歌詞は、それ自体は無意味であり、だからこそ崇高なものである。

 色々な映画からの引用である。

 ロックで読み取るべきは、歌詞の、その言葉自体の意味ではない。
 その歌詞に込めたもの、つまり歌い手の考え方であると思う。

 歌い手がその曲に、本気で”何か”を込めたのなら、ちゃんと聞いた人は”何か”を感じ取れるはずである。
 それがAという気持ちを込め、たとえ相手にBという違う形で伝わったとしても、”何か”は伝わるはずだ。

 では劇中、種田が作った『ソラニン』はロックか否か。

 芽衣子は『ソラニン』の歌詞をなぞったとき、「これは別れの歌なんだ」と解釈する。

 僕もパンフで、『ソラニン』の歌詞を確認する。
 なるほど確かに、別れの歌のような気がする。

 種田が死に、彼の代わりに『ソラニン』を歌うことを決意する芽衣子。

 芽衣子が本気でこの曲に向き合ったとき、自分の歌にしようとしたとき、彼女は、『ソラニン』への解釈を改めることになる。

 種田は、もしかしたら本当に「彼女への別れの曲」として『ソラニン』を書いたのかもしれない。(※)
 しかし芽衣子は「過去の自分への別れの歌」として自分の中に『ソラニン』を形成した。

 それはやはり、どんなものであれ、種田が本気でこの曲に”何か”を込めたから、芽衣子に”何か”が伝わったからであると思う。

 自分の『ソラニン』を見つけたとき、彼女の人生は少しではあるが前進を始めていく。

 だからラストの、”芽衣子の”『ソラニン』は最大の見せ場であるわけだ。
 彼女が出した答えを、これから生きていく人生を、”歌”として表現したものだから。

 曲が始まった瞬間、ここばかりは流石に震えたし、芽衣子が歌う姿をカッコいいと思った。


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 だ・か・ら。

 ものすごく惜しいと感じてしまった。

 ”歌”に全てを込めたのだったら、宮崎あおいの歌声がどうであれ、演奏技術がどうであれ、『ソラニン』を最初から最後まで聞かせて欲しかった。
 そこにまた、回想をインサートして、歌以外の”言葉”で大切なものを語り始めてしまったから、僕のテンションはずるずると下がっていってしまった。

 映画で歌だけ流しても、何も伝わらないと思ってしまったのだろうか。
 いやいや使い方によっては、作り手やキャラクターの意図を雄弁に語ってくれるものである。
 そして、本作に関しては使いどころはバッチリであったと思うのに・・・だから、ものすごく惜しいと思ったのだ。

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 とにかく、やることなすこと全てがクサい。
 ギャグも寒い。

 「無限大ギャク」が炸裂したときは、劇場に風穴が開いていたかどうかは定かでないが、客席に寒波が襲ってきたように感じた。
 原作を読んでいた友人に聞いたら、これは原作にも登場するシーンだそうで。
 公開まもなくで観にいったので、原作ファンが多かったであろうことを推測すると、寒波は局所的なもの(つまり僕の席だけ)であったのかもしれない。

 だがそれでも、芽衣子の『ソラニン』がフルで流れてくれたなら、全てを許せたはずなんだ。

 だから、惜しい。
 クサい、サムいだけで片付けるには、惜しい作品であったような気がする。

 以上、もちろんながら僕の勝手な意見であるし、監督が意図していたことは違うことなのだと思うが、思い違いは空のかなた、それもいいさ・・・ということで、勘弁して欲しい。


※:
物語的に、多分種田も「過去への別れの曲」として書いたのだろうとは思う。
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 全然関係ないけれど、上映前に流れた『シーサイドモーテル』の予告編、開始早々の麻生久美子を観たとき、これは観なきゃと思った。



 こういうのを嫌味なく出来るのってすごいよね。

梅太@ 劇場:『オーケストラ!』

この記事は そうは言いつつもやっぱり僕も日本人だな・・・と思う 梅太 の名の下にお送りいたします

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●”協奏”:『オーケストラ!
監督はラデュ・ミヘイレアニュ。
出演にアレクセイ・グシュコブ、麗しきメラニー・ロラン、他。

 今年度フランス映画際で最も観たかった作品ですが、都合が合わず・・・
 しかし意外と早く公開になったので嬉しいです。

 今年も劇場でメラニー・ロランが観れた幸せと共に、本記事をお贈りいたします。


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 ストーリーは。

 モスクワはボリショイ劇場で清掃員として働くアンドレイ。
 掃除の合間に度々オケのリハーサルに忍び込んでは、劇場管理人に見つかり、怒られる日々。

 ある日、管理人の部屋を掃除中、送られてきたファックスを偶然見てしまったアンドレイ。
 その内容は、パリの劇場からの出演依頼であった。

 管理人に見つかる前にファックスをくすねたアンドレイは、ニセの管弦楽団を結成し、パリへ乗り込むという無謀な作戦を友人に相談する。
 反対する友人の言葉に耳を貸さず、頑なに実行しようとするのには、彼の過去に秘密があり・・・

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 「協奏=コンチェルト」には、「意思を合わせる」という意味があるらしい。
 そんな観点から見たとき、ラストの『ヴァイオリン協奏曲』の演出は圧巻だ。

 アンドレイは昔は有名な指揮者であったが、当時の政権のユダヤ人排斥運動で、オケは解散せざるを得なくなる。
 このたび舞い降りた(?)チャンスに乗じてかつてのメンバーを集めるが、みんなの”意思”はバラバラ。
 リハも行わずに本番に挑むが、うまく行くはずもない。

 しかし、このオケの為に呼び寄せたソリスト:アンヌ・マリー(麗しきメラニー・ロラン!!)が奏で始めた瞬間から、空気はガラっと変わる。
 それは単純に、彼女の演奏の素晴らしさもあるが、かつてメンバーが共有した”とある過去”と、アンヌ・マリーとのちょっとした関係もある。
 ここから全員の”意思”が、ピタリと合い始める。
(このシーンでは、劇中アンドレイが発する”ソリストの役割”に関する台詞も巧い伏線となっていて、実に良い)

 曲が進むにつれて、”現在のオケ”が、「協奏」をする。
 曲が進むにつれて、”とある過去”の真相が明かされていく。

 そして曲がクライマックスに差し掛かり、”過去と現在”が「協奏」を始め、「コンチェルト」が頂点に達し、怒涛のフィニッシュを迎える。

 この運び方といい、過去を明かしていくシークエンスのインサート具合といい、あんまりにも巣晴らしすぎて、涙々であった。

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 前半はドタバタコメディとして楽しめる。
 クライマックスは、素晴らしい演奏が待っている。
 そして全編に渡り、メラニー・ロランファンを発狂させる要素が満載である。
 レストランのシーンとか、もちろん演奏シーンも。横顔がいいよね、横顔が。
 撮り方が美しすぎる。Good job、ミヘイレアニュ監督!

 ・・・とにかく、メラニー・ロランに限定せずとも、今年必見の一本!
 『のだめ』を観た後でもいいから、是非とも!

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 曲が終わった瞬間、僕は腰を浮かしそうになったけれど・・・・うん、僕も日本人だなぁと再認識してしまった。
 本国フランスでは、拍手の欧州・・・間違えた、応酬であったみたいだ。
(最高に麗しきメラニー・ロラン!のインタビューより)

 実際のコンサートだと、自然と拍手が沸き起こったであろうに。
 映画も、そういう見方をして、良いと思うのだけれど。

 でも、誰かがし始めたら、きっと乗ってくると思うのだよね。
 それくらいの素晴らしさはあった。

 「拍手推奨委員会」でも結成するか。