この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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今日は何も気にせず伸び伸び書きます。
さて、2011年も早3ヶ月が過ぎたところ、。
ここのところプライベートで、映画以外の色々なことに手を出しすぎて、はて一体全体何をやってきたのかと、細かい部分がぬけ落ちてしまっているので、備忘録としてここに残しておこうかと、思ってみたりみなかったり。
ちなみにこの文章の中で、ピンクのスーツの女性や、胃拡張の司書さんが出てきたりはしないし、また<私>の世界と<僕>の世界による2部構成にもなっていたりはしないので、期待していた方には申し訳ない。
が、『ダニーボーイ』くらいは出てくるかもしれない。
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▼▼▼映画▼▼▼
近年希にみる、劇場鑑賞数の少なさです。
題名だけ列挙。
・ノルウェイの森
・スプライス
・ソーシャルネットワーク
・キックアス
・ボッカチオ'70
・ウォールストリート
・平成ガメラ3部作(オールナイト)
・ファンタスティックMr.FOX
・わたしを離さないで
『キックアス』は2度目の鑑賞なので、新作だけでいったら6本ですね。むぅ。
でも代わりに、DVD生活は充実。
といっても、殆どチャップリンしか観ていないですけどね。年内中に有名どころはしっかり制覇しておきたいです。
チャップリンが終わったら、ヒッチコックかな。
『SUPER 8』がやる前に、何となくスピルバーグの作品を改めて観ておきたい気もするんだが。
でも何やかんやで、極論キャリー・マリガンに落ち着くこの3ヶ月。
↓『SUPER 8』予告編↓
↓『わたしを離さないで』予告編↓
▼▼▼読書▼▼▼
手帳を観ると、劇場で 『ノルウェイの森』を観た後から、村上春樹しか読んでいないみたい。
昨日『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読み終わり、ここらで一つ区切りをつけたいと思っている。
一番のお気に入りは『スプートニクの恋人』かな。
題名に恋して、中身の言葉に恋して。
人工衛星に乗ったあのライカ犬の運命を思えば、どんな事だってたいしたことはないのでないかと思う今日この頃。
あ、これは『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』か。
一人の作家の作品を集中的に読んでいると、その人の考え方の軸が見えてきます。
あの手この手で物語を綴っているけれど、村上春樹の軸は、言いたいことは多分そこなんだろうな・・・というのが、何となく見えてきた。
また、比喩表現の多用というのも、一つの特徴かもしれない。
これは昨年『ブライトスター』を観て、詩というものを少し真剣に考えた時期に、自分の中で見いだしたものと重なる部分がある。
いつかこの辺は、ちゃんと形にしたい気もする、でも、したくない気もする。とにかく『スプートニクの恋人』を読んでいる時の高揚感と、読み終わった後の余韻は、宝物のような気がしている。
↓『ノルウェイの森』予告編↓
↓『ブライトスター』予告編↓
次。
▼▼▼音楽▼▼▼
昨年末に第九を聞いて以来、すっかりクラシックを聞くようになった今日この頃です。もっと第九を・・・と思ってお店を回っている間に、増えていったのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でした。
また、ある日、これは後でも登場しますが『ムーンリバー』というカクテルを作ったときに、ふと『ティファニーで朝食を』を思いだし、でもそれは風と共に去り、月、月・・・・あ!ということでドビュッシーの『月の光』を流しながら、お酒を飲んでいたのです。
ちなみにこの時聞いていたのは、偶然持っていた『つぐない』という映画のサントラに収録されていたものでした。
↓『つぐない』終盤のこのシーンで流れるのです↓
↓『ティファニーで朝食を』オープニング↓
お酒の力も、ままあるにせよ、世界にこんな美しい音があるなんて知らなかったということで、目から鱗、棚からぼた餅、もう涙々の大団円で、一気にドビュッシーの世界にハマる。いやドビュッシーの・・・というよりは、もう「月の光」に限定してもいいかもしれない。
というわけで、第九探しはチャイコフスキー探しになり、流れで『月の光』探しになったわけだ。
CDいっぱいあるよ。
また2月末には生で聞きにいったりもした。5月末にも行く予定。聞けるだけ聞く。
オーケストラに関しては、10月にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聞きに行くことが決まっている。できれば4大を制覇・・・と行きたいところだけど、みずほ銀行と相談する。
そうそう、演奏する立場にも立ってみようかと思って、ちとピアノを始めた。といってもキーボードだけど。
年内に一曲くらい・・という目標でいる。
次。
▼▼▼落語▼▼▼
1月末に、桂三枝の落語を聞きに行く。一瞬で惚れて、先日新宿末廣亭で、今度は友人を連れて寄席を観る。
僕は言葉が好きだし、ジョークやユーモアは大好きだし、落語っていうのはそんな僕のために用意された伝統芸能のような気がしてならない。
耳から入る物語・・・というのは本等、そこに留まっている言葉を解釈するでなく、常に流れる音を捉え、大胆に、時には匂わせるくらい細やかな、ユーモアの意味を理解する。
話し手としては、それを理解させる。
瞬時の相互理解。笑いの共有。あ~楽しい。
言うなれば幼少の頃の読み聞かせにも似ているのかもしれない。落語のエッセンスを掴めば、子供が出来たとき役に立つかもね。
寄席はこれからも通い続けます。
とりあえず、都内の寄席は、今年中に制覇したいところ。
▼▼▼他、細々と▼▼▼
●バレエ
クラシックバレエ初体験。
これまでスクリーン、紙、キャンパスなど、ある媒体を通しての表現というのはいくつか観てきたけれど、自分の体こそ表現の道具・・・というのは、バレエならではかもしれない。
演劇にも似るところはあるかもだけれど、言葉というものがなく、体しか頼るものがないのは、そこに一本、線を引く感じがある。
●オペラ
震災により中止。残念。
●シンポジウム巡り
『Life shippo project』
『未来を拓く脳科学研究』
の二つに参加しました。逃したものは数知れず。
めげずに頑張る。
どちらも、表現というものへの理解の手助け、という、直接には関係ない部分で非常に役に立っています。
●写真関連
動画は一本制作。ネタ動画だけど、でも時間を共にした人たちに楽しんでもらえたのは嬉しかった。
写真はちょいちょい撮ってます。そろそろサクラですなぁ。
●美術館・展示
友人が芸大を卒業すると言うことで、その卒展。
ネイチャーセンス展で得た考え、それに似通う部分があり、あ~こんなところで世界が繋がるもんだなぁと、作品の素晴らしさにそんな気持ちも上乗せして、酔い時間でした。
写美にてAPAアワード2011。
ガーデンプレイスの景観も相まって、写美に行くと写真撮りたくなります。恵比寿の写真が多いのは、そのせいかもしれません。
ツイッターでフォローさせて頂いている絵本作家志望のyukiリンダさんの絵本展示にも行った。
絵本については昨年『かいじゅうたちのいるところ』から色々と考えることもあり、また上野はこども図書館にて『絵本の黄金時代』という展示を観て、この分野に益々のご健勝・・・間違えたますます興味を持ち始めていたところ、こんな展示があったので無条件に飛び込んだ。yukiリンダさんの本は勿論、他の作家さんたちの本も素敵な物ばかりでした。自分の思っていることを表現できるっていうのは、ホント、すごいことなんですよね。
文化服装学院の卒展。
これは本当に偶然見つけて、ふらっと立ち寄っただけなのだけれど、非常によかった。
特に、靴の展示が良くて、歩くこと、それ即ち物語を紡ぐこと・・ということに気づかせてくれた作品があり、ありがとうと言いたい。ありがとうさぎ。
まほうのことばでポポ・・・はい、次。
●短歌
休業中
●散歩
そろそろ再会
●マジック
昨年後半から方々でやってる。主に飲みの場が多い。
先日部活時代の相方につれられ、久々にマジックショップへ行った。楽しかった。
相手が飲んでる(僕も飲んでる)ということで、ネタは限られるけど、その分口がウマくなってる気がする。そのうちネタをやらず、口だけになるかもしれない。そうなったらもう、ただのトークだ。きみまろ状態だ。
▼▼▼料理▼▼▼
上記したように、週末は大体外にいたので、ゆっくり料理をした記憶がない。
けど、節目節目でしっかりお菓子は作っていたようだ。
生チョコをうまく作りたい。
加えて、年末からカクテル作りにも手を出し始めた。特にジンベースのものが、僕には合ってるみたい。ギムレットとかね。ギムレットにはまだ早いってね。
フィリップ・マーロウだね。
double boiled extream.
今のところ一番好きなのは『ムーンリバー』といって、ジンとアプリコット、クアントロー、ガリアーノ、レモンジュースで作るカクテルです。
↓カクテル『ムーンリバー』↓
そう、『ムーンリバー』と言えばオードリー・ヘップバーンです。ティファニーです。水木しげるの描く一般人みたいなマンションの管理人が出てくるあの映画です。いいですねぇ。
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プライベートはざっとこんな所でしょうか。
いざ書いてみると、結構な濃縮還元っぷりで、自分でもちょっと驚いている。
実に落ち着きの無い3ヶ月をダラダラ書いてみたけど、ダラダラしすぎてオチがつかないという悩み。
でも頭の整理は大分出来た。おかげで。
さて、次は物品整理、つまりお部屋の大掃除をしなくてはいけない。ずいぶんと物がふえたから。
さ、年度明けは、社会人3年目。
石の上にも三年と良く言うけれど、この言葉は真理だと思う。
テンションとモチベーションは右肩上がり。家の消費電力は右肩下がり。
小さなことでもコツコツと。小さじいっぱいの勇気を・・・これなんのフレーズだっけ。
来年度もがんばっていきやしょう。
↓『ダニーボーイ』↓
2011年3月15日火曜日
梅太@ コラボでシネマ:ブルースと言う名前の贈り物
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
なんだろう、何となくこんな時って、ヴォネガットが読みたくなるのですよね。
『国のない男』- カート・ヴォネガット
二次大戦を経験し、ヴォネガットは人間の愚かさを知る。
それは彼の数々の物語の中で色濃く描かれるが、同時に彼は、人間が見出した色々の芸術を愛した。
そして芸術を通じて、色々あるけどそれでもやっぱり、人間への愛情を捨てきれない人だった、と僕は思っている。
ヴォネガットがこの本の中で語る二次大戦、それは人が相手のものである。
一方、今回の東北大地震、それは自然が相手である。
しかし相手は違えど、人に与えた、特に精神的なダメージというものは、どこか共通する部分があるように感じた。
この本で描かれた一つ一つの台詞、ユーモア。
それは大地震でダメージを受けた人、そして実被害から免れても、連日のニュースで精神的に参ってしまっている人、そんな人へ、ちょっとした薬になるのでは無いかと、思ったのです。
▼▼▼▼▼▼▼
・・・といって、全ての言葉を書き出すことは、いわゆる著作権法なり何なりに引っかかり、この状況下で警察の方々のお手間を増やすわけにはいかない。
なので中でも、音楽とユーモアについて、幾つかを抜粋することにする。
背景はこうだ。
アメリカの奴隷時代、つまり黒人に対する差別が酷かった時代。
白人の奴隷所有者達の自殺率は、奴隷であった黒人のそれよりも高かったらしい。
その理由は、奴隷たちが絶望の対処法を知っていたからということみたいだ。
今置かれてる現状が、そしてこの後に残る傷跡が、キレイさっぱり消えるわけでは無いけれど、それを外へ外へと追いやろうとする。
そんな術を具現化したもの、それこそがブルースという音楽・・・らしい。
負の状況下で、ポジティブに生きようとする力。
確かにブルースを聴いていると、底から持ち上げてくれるような感覚がある。
この言葉を読んだとき、色々と繋がったものがある。
なぜヴォネガットは、数多くある音楽のジャンルの中で、このブルースを取り上げたのか。
それは”ユーモア”に対する、ヴォネガットの考え方;ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う - に寄るのだと思う。
そういう逆境的な局面で、生まれるものがあるという事だ。
(おっと、セミコロンを使ってしまった)
▼▼▼▼▼▼
さて、普段あまり真面目に見られない僕ですが、ユーモアってなんだろうというのは、意外に真面目に考えていて、いやそもそもユーモアを眉間に皺寄せて根つめて考えたら、それって自分は面白く無いだろう、その状況、むしろ笑える・・・という、これもまた一つの小噺なのだけど、そこは置いておいて。
・・・話が逸れたけど。
こういう状況下で、笑いの力って凄く威力を発揮すると思うのだけど、いざ災害とご対面してみると、それって難しいと、心から思いました。
この状況で、お前何を言ってんだ?と言われる可能性だってあるし、ヴォネガットも「どうやってもジョークにならない素材というものがある」と言っている。
(彼の場合、大災害はジョークに出来る分類に入るみたいだけど)
今回改めてこの本を読んだとき、確かに、僕が求めるユーモアってここにある・・・と思った。
少し皮肉っぽいけど、決して攻撃的でなくやわらかい、聞くと安心するユーモア。
でも自分でやるとなると、境目というものが、わからない。
この線は超えていいのかいけないのか、わからない。
いやはや笑えるジョークは、むつかしい。
そしてジョークって、すごく勇気がいるものなのだと、思いました。
でも、週が明けて、人に会って、笑っていると、かなり救われますよね。
笑いっていうのはいいものです。
怯むなんて、僕らしくない。
だから自分としても、ここでめげないで、ユーモアについてもっと勉強したいと思いました。
いや、勿論その前に、被災者の方に、実のある支援をするのが先決ですけどね。
▼▼▼▼▼▼
さて、なにも本の紹介をしようと思って、このブログを立ち上げたわけでなく。
いやそれでも、ほんのちょっと位は、本の紹介をしたっていいじゃないかよ、とも思いつつ。
このブログは何のため?と言われれば、そうだ映画の紹介の為だと思い。
こんな時、ブルースのように、皆を元気にしてくれる映画ってなんだろう。
お察しの方もいるかと思いますが、ここでは『ブルース・ブラザース』を紹介させて頂きます。
いやはや、実に安直。
主人公兄弟が織り成すドタバタ劇は、否応なしに見るものを笑わせてくれますし、劇中歌われるブルースの数々は、吊られて自然と体が動いてしまいます。
一曲だけ、紹介。
その名も『監獄ロック』。
上に書いたブルースの歴史を聞くと、題名が皮肉っててね、いいでしょ?
『Jailhouse Rock』
↓↓↓劇中シーンはコチラで観れます↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=g22b9mjzQKg
ジョークと、音楽に満ちた、こんな時、抜群にオススメしたい作品。
余裕のある方は是非どうぞ。
そういえば、先日Bar NOIに行った時、外人さんとこの作品の話になりましてね。
そしてヴォネガットの本、ブルースの話。
何だか色々と、繋がってる気がする。
--------------------------
最後に。 またヴォネガットの言葉で。
僕は4年ほど前にこの言葉を読み、以後、物事の考え方の軸になっている。
●この記事で紹介したもの
・本:『国のない男』 - カート・ヴォネガット
・映画:『ブルース・ブラザーズ』
被災者の方、そうで無い方も、みんながんばろう。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
なんだろう、何となくこんな時って、ヴォネガットが読みたくなるのですよね。
『国のない男』- カート・ヴォネガット
二次大戦を経験し、ヴォネガットは人間の愚かさを知る。
それは彼の数々の物語の中で色濃く描かれるが、同時に彼は、人間が見出した色々の芸術を愛した。
そして芸術を通じて、色々あるけどそれでもやっぱり、人間への愛情を捨てきれない人だった、と僕は思っている。
ヴォネガットがこの本の中で語る二次大戦、それは人が相手のものである。
一方、今回の東北大地震、それは自然が相手である。
しかし相手は違えど、人に与えた、特に精神的なダメージというものは、どこか共通する部分があるように感じた。
この本で描かれた一つ一つの台詞、ユーモア。
それは大地震でダメージを受けた人、そして実被害から免れても、連日のニュースで精神的に参ってしまっている人、そんな人へ、ちょっとした薬になるのでは無いかと、思ったのです。
▼▼▼▼▼▼▼
・・・といって、全ての言葉を書き出すことは、いわゆる著作権法なり何なりに引っかかり、この状況下で警察の方々のお手間を増やすわけにはいかない。
なので中でも、音楽とユーモアについて、幾つかを抜粋することにする。
============================
ブルースは絶望を家の外に追い出すことは出来ないが、演奏すれば、その部屋の隅に追いやることは出来る。
============================
背景はこうだ。
アメリカの奴隷時代、つまり黒人に対する差別が酷かった時代。
白人の奴隷所有者達の自殺率は、奴隷であった黒人のそれよりも高かったらしい。
その理由は、奴隷たちが絶望の対処法を知っていたからということみたいだ。
今置かれてる現状が、そしてこの後に残る傷跡が、キレイさっぱり消えるわけでは無いけれど、それを外へ外へと追いやろうとする。
そんな術を具現化したもの、それこそがブルースという音楽・・・らしい。
負の状況下で、ポジティブに生きようとする力。
確かにブルースを聴いていると、底から持ち上げてくれるような感覚がある。
この言葉を読んだとき、色々と繋がったものがある。
なぜヴォネガットは、数多くある音楽のジャンルの中で、このブルースを取り上げたのか。
それは”ユーモア”に対する、ヴォネガットの考え方;ユーモアというのは、いってみれば恐怖に対する生理的な反応なんだと思う - に寄るのだと思う。
そういう逆境的な局面で、生まれるものがあるという事だ。
(おっと、セミコロンを使ってしまった)
▼▼▼▼▼▼
さて、普段あまり真面目に見られない僕ですが、ユーモアってなんだろうというのは、意外に真面目に考えていて、いやそもそもユーモアを眉間に皺寄せて根つめて考えたら、それって自分は面白く無いだろう、その状況、むしろ笑える・・・という、これもまた一つの小噺なのだけど、そこは置いておいて。
・・・話が逸れたけど。
こういう状況下で、笑いの力って凄く威力を発揮すると思うのだけど、いざ災害とご対面してみると、それって難しいと、心から思いました。
この状況で、お前何を言ってんだ?と言われる可能性だってあるし、ヴォネガットも「どうやってもジョークにならない素材というものがある」と言っている。
(彼の場合、大災害はジョークに出来る分類に入るみたいだけど)
今回改めてこの本を読んだとき、確かに、僕が求めるユーモアってここにある・・・と思った。
少し皮肉っぽいけど、決して攻撃的でなくやわらかい、聞くと安心するユーモア。
でも自分でやるとなると、境目というものが、わからない。
この線は超えていいのかいけないのか、わからない。
いやはや笑えるジョークは、むつかしい。
そしてジョークって、すごく勇気がいるものなのだと、思いました。
でも、週が明けて、人に会って、笑っていると、かなり救われますよね。
笑いっていうのはいいものです。
怯むなんて、僕らしくない。
だから自分としても、ここでめげないで、ユーモアについてもっと勉強したいと思いました。
いや、勿論その前に、被災者の方に、実のある支援をするのが先決ですけどね。
▼▼▼▼▼▼
さて、なにも本の紹介をしようと思って、このブログを立ち上げたわけでなく。
いやそれでも、ほんのちょっと位は、本の紹介をしたっていいじゃないかよ、とも思いつつ。
このブログは何のため?と言われれば、そうだ映画の紹介の為だと思い。
こんな時、ブルースのように、皆を元気にしてくれる映画ってなんだろう。
お察しの方もいるかと思いますが、ここでは『ブルース・ブラザース』を紹介させて頂きます。
いやはや、実に安直。
主人公兄弟が織り成すドタバタ劇は、否応なしに見るものを笑わせてくれますし、劇中歌われるブルースの数々は、吊られて自然と体が動いてしまいます。
一曲だけ、紹介。
その名も『監獄ロック』。
上に書いたブルースの歴史を聞くと、題名が皮肉っててね、いいでしょ?
『Jailhouse Rock』
↓↓↓劇中シーンはコチラで観れます↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=g22b9mjzQKg
ジョークと、音楽に満ちた、こんな時、抜群にオススメしたい作品。
余裕のある方は是非どうぞ。
そういえば、先日Bar NOIに行った時、外人さんとこの作品の話になりましてね。
そしてヴォネガットの本、ブルースの話。
何だか色々と、繋がってる気がする。
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最後に。 またヴォネガットの言葉で。
===============
唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。
ユーモアは人の心を楽にする力がある。アスピリンのようなものだ。
百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっと嬉しいと思う。
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僕は4年ほど前にこの言葉を読み、以後、物事の考え方の軸になっている。
●この記事で紹介したもの
・本:『国のない男』 - カート・ヴォネガット
・映画:『ブルース・ブラザーズ』
被災者の方、そうで無い方も、みんながんばろう。
2011年3月1日火曜日
梅太@ 雑記:わたしにならできる1つのこと
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
募金というのは素晴らしい制度だと、24年生きてきて・・・いや物心のつく数年間をさっ引いても、10何年生きてきて、初めて思った。
今日はそんなお話。
▼▼▼▼▼▼
といって、いきなり話が少し変わる。
僕の2大趣味として映画鑑賞と読書がある。
最近は爆発的な勢いで興味の幅が増えてきて、過去を振り返ると時に「よくあのころは趣味が絞れてたなぁ」と思うばかりであるけれど、幅は増えてもこの二つがトップなのは変わりない。
映画と読書、この二つには、そこに展開されている物語に身を沈めること、登場人物たちが生きている人生を疑似体験すること、そんな共通点があると思う。
この世界ではないどこかで、自分ではない誰かの考えていることに思いを馳せる、昔から、その行為が好きであった。
僕は物語を咀嚼するのに、かなり時間をかかかってしまう。それは一つ一つの場面を想像し、台詞の一つ一つの意味を考えると、自然とそうなってしまうのである。
ご飯を食べるときも、それくら時間をかければきっと健康的なのだけれど、そこは置いておこう。
登場人物たちが置かれている現況を想像し始めると、僕は精神的に結構キツくなる時がある。
例えば「つぐない」という映画の原作となった、イアン・マキューアンの「贖罪」で、戦地に赴いた青年が喉の渇きを必死に耐え、集合場所へ向かうシーンがある。僕はこの場面を読んでいるとき、本気で喉が渇いてしまったし、蛇口をひねれば水が出る・・・という環境に、えらく感謝したことを覚えている。
勿論ハッピーな描写であれば、そこに身を浸して自分も幸せになれたりもする。
しかし身を浸すという行為は、場合によってはとても危険な行為だと感じることもある。
が、それに対する策も、実は持っていたりする。それは「これはフィクションです」と割り切ってしまうこと。僕は意外とバイオレンスな描写に強いのは、実はそんなフィルターをうまく利用しているからである。
しかし、フィクションでない事例に遭遇すると、このフィルタは機能しなくなる。
▼▼▼▼▼▼
先日発生した、ニュージーランドでの大地震。災害の詳細を把握したのは夜のニュースであったけれど、救出された人のコメント、まだ救出されてない人の安否を気にする人の姿をカメラは捉えていく。
その人たちの立場になって、その人たちの気持ちを想像し始めると、僕は今、夜ご飯を悠々と食べていていいのだろうかという気がしてくる。
気にしすぎだと、言う人もいるかもしれないけれど、映画や読書を通じて培ってきた「誰かの立場になって」という行為は、もう息をするのと同じくらい自然な行為となってしまっている。
だから、結構つらい。こういうニュースを観ると。
▼▼▼▼▼▼
また映画の話に少し戻る。
僕は「キック・アス」を観たとき、ものすごく感銘を受けた。
根底に流れるテーマとして、「すごいことは出来ないけれど、そんな自分でも出来る小さなことを見つけよう」というのが、あると思う。勝手な想像ではある。
主人公:デイブはマンガやアニメに出てくるヒーローに憧れる青年。ある日、「現実世界にヒーローがいないなら、俺がなってやる」と意気込み、全身タイツを買い、”キック・アス”と名乗って町へ繰り出す。
ヒーローとしての最初の仕事は、車上荒らしのチンピラを退治することであったが、彼は返り討ちにあい、瀕死の重傷を負う。
回復して、もうヒーローは諦める・・・とはならず、彼はヒーローとしての活動を再開することを決める。
復帰後の最初の仕事は、なんと、迷子の猫を探すこと。
チンピラ撃退からしたら、偉くスケールが下がってしまったが、それが彼なりの、”今の自分に”出来る精一杯なのだと思った。
自分には凄いこと出来ないし・・・として退くでなく、それでも自分に出来る小さなことを探す。その気持ちこそヒーローの第一歩。
僕はこの一連の流れに偉く感動した。
▼▼▼▼▼▼
さて、話を戻す。
今、地震の被害で苦しんでいる人に僕が出来ることってなんだろう、と考えてみる。
現地に飛ぶなんて出来ない、直接助けることはできない。
それでも何か出来ないか。
として、浮かんだものが募金だった。
募金なんて、今まで真剣に考えたことはなかったが、浮かんだことはそれだった。
そして、募金についてちょっと考えてみると、募金は、渡す相手の顔が見えるわけではない。ついつい「僕には関係ないから」とスルーしてしまう。
僕もそうだった。
でも現に苦しんでいる人がいる、というのを、テレビでも新聞でもいいから観て、その人たちはいまどうしているだろうと考え、いてもたってもいられなくなる人が、おそらく世界中にいて、それでも何かしてあげられること・・・として考え出されたのが、きっと募金という行動の始まりだったのだろうと、今は思う。
だから、ニュースを観た翌朝、僕は募金をした。
僕でも出来る小さなこと、であった。
相手の立場になる・・・という行為は、多分これまでも出来ていたはずだが、それに対して何かアクションを・・・という心持ちは、恐らく「キック・アス」の物語を咀嚼しなければ至らなかった考えだ。
災害と、映画と、平行して考えることは不謹慎になるのかもしれないけれど、でもそのおかげで気付いたというのは事実である。
結び、が思いつかないけれど、ちょっとここに、思ったことをつらつら書いてみた。
募金という物に対し、考え方が変わった週であった。
セブンイレブンでは3/6まで募金を行っている様ですので、気付いたら少し、入れてみて下さい。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
募金というのは素晴らしい制度だと、24年生きてきて・・・いや物心のつく数年間をさっ引いても、10何年生きてきて、初めて思った。
今日はそんなお話。
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といって、いきなり話が少し変わる。
僕の2大趣味として映画鑑賞と読書がある。
最近は爆発的な勢いで興味の幅が増えてきて、過去を振り返ると時に「よくあのころは趣味が絞れてたなぁ」と思うばかりであるけれど、幅は増えてもこの二つがトップなのは変わりない。
映画と読書、この二つには、そこに展開されている物語に身を沈めること、登場人物たちが生きている人生を疑似体験すること、そんな共通点があると思う。
この世界ではないどこかで、自分ではない誰かの考えていることに思いを馳せる、昔から、その行為が好きであった。
僕は物語を咀嚼するのに、かなり時間をかかかってしまう。それは一つ一つの場面を想像し、台詞の一つ一つの意味を考えると、自然とそうなってしまうのである。
ご飯を食べるときも、それくら時間をかければきっと健康的なのだけれど、そこは置いておこう。
登場人物たちが置かれている現況を想像し始めると、僕は精神的に結構キツくなる時がある。
例えば「つぐない」という映画の原作となった、イアン・マキューアンの「贖罪」で、戦地に赴いた青年が喉の渇きを必死に耐え、集合場所へ向かうシーンがある。僕はこの場面を読んでいるとき、本気で喉が渇いてしまったし、蛇口をひねれば水が出る・・・という環境に、えらく感謝したことを覚えている。
勿論ハッピーな描写であれば、そこに身を浸して自分も幸せになれたりもする。
しかし身を浸すという行為は、場合によってはとても危険な行為だと感じることもある。
が、それに対する策も、実は持っていたりする。それは「これはフィクションです」と割り切ってしまうこと。僕は意外とバイオレンスな描写に強いのは、実はそんなフィルターをうまく利用しているからである。
しかし、フィクションでない事例に遭遇すると、このフィルタは機能しなくなる。
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先日発生した、ニュージーランドでの大地震。災害の詳細を把握したのは夜のニュースであったけれど、救出された人のコメント、まだ救出されてない人の安否を気にする人の姿をカメラは捉えていく。
その人たちの立場になって、その人たちの気持ちを想像し始めると、僕は今、夜ご飯を悠々と食べていていいのだろうかという気がしてくる。
気にしすぎだと、言う人もいるかもしれないけれど、映画や読書を通じて培ってきた「誰かの立場になって」という行為は、もう息をするのと同じくらい自然な行為となってしまっている。
だから、結構つらい。こういうニュースを観ると。
▼▼▼▼▼▼
また映画の話に少し戻る。
僕は「キック・アス」を観たとき、ものすごく感銘を受けた。
根底に流れるテーマとして、「すごいことは出来ないけれど、そんな自分でも出来る小さなことを見つけよう」というのが、あると思う。勝手な想像ではある。
主人公:デイブはマンガやアニメに出てくるヒーローに憧れる青年。ある日、「現実世界にヒーローがいないなら、俺がなってやる」と意気込み、全身タイツを買い、”キック・アス”と名乗って町へ繰り出す。
ヒーローとしての最初の仕事は、車上荒らしのチンピラを退治することであったが、彼は返り討ちにあい、瀕死の重傷を負う。
回復して、もうヒーローは諦める・・・とはならず、彼はヒーローとしての活動を再開することを決める。
復帰後の最初の仕事は、なんと、迷子の猫を探すこと。
チンピラ撃退からしたら、偉くスケールが下がってしまったが、それが彼なりの、”今の自分に”出来る精一杯なのだと思った。
自分には凄いこと出来ないし・・・として退くでなく、それでも自分に出来る小さなことを探す。その気持ちこそヒーローの第一歩。
僕はこの一連の流れに偉く感動した。
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さて、話を戻す。
今、地震の被害で苦しんでいる人に僕が出来ることってなんだろう、と考えてみる。
現地に飛ぶなんて出来ない、直接助けることはできない。
それでも何か出来ないか。
として、浮かんだものが募金だった。
募金なんて、今まで真剣に考えたことはなかったが、浮かんだことはそれだった。
そして、募金についてちょっと考えてみると、募金は、渡す相手の顔が見えるわけではない。ついつい「僕には関係ないから」とスルーしてしまう。
僕もそうだった。
でも現に苦しんでいる人がいる、というのを、テレビでも新聞でもいいから観て、その人たちはいまどうしているだろうと考え、いてもたってもいられなくなる人が、おそらく世界中にいて、それでも何かしてあげられること・・・として考え出されたのが、きっと募金という行動の始まりだったのだろうと、今は思う。
だから、ニュースを観た翌朝、僕は募金をした。
僕でも出来る小さなこと、であった。
相手の立場になる・・・という行為は、多分これまでも出来ていたはずだが、それに対して何かアクションを・・・という心持ちは、恐らく「キック・アス」の物語を咀嚼しなければ至らなかった考えだ。
災害と、映画と、平行して考えることは不謹慎になるのかもしれないけれど、でもそのおかげで気付いたというのは事実である。
結び、が思いつかないけれど、ちょっとここに、思ったことをつらつら書いてみた。
募金という物に対し、考え方が変わった週であった。
セブンイレブンでは3/6まで募金を行っている様ですので、気付いたら少し、入れてみて下さい。
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