この記事は ごめんなさい。言葉がないです・・・な 梅太 の名の下にお送りいたします
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名画座日記-6
ギンレイホールにて。
イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演『チェンジリング』を、遅れに遅れてやっと鑑賞。
言葉がでなかった。
それは、ストーリーが重すぎるから、とか、そういうものではない。
いや、もちろんそれもある。
ここまで、”映画”として完成されている作品を見せられたとき、人はどういう反応をするのか。
身をもって、思い知らされた。
真に偉大なものに出会ったときの、ある種の絶望感とでもいうのだろうか。
愕然としてしまった。
ただただ、立ち尽くすだけであった。
(いや、映画館だから、座っていたのだけれど。言葉のアヤね)
それがそのうち、幸福感へと変わっていくのだけれど。
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僕は、以前誰かに指摘されたことがあるのだが、映画の観方が非常に細かい。
「あの俳優の、このシーンの演技が・・・」とか、「あのときの曲のかかるタイミングがさ・・・」とか。
いや、もちろん全体像を見渡すことも忘れないのだけれど。
先日、『映画の美学』という本を読んだ。
そこに、こんなことが書いてあった。
映画は、様々な芸術を組み合わせた、複合的な芸術である・・・と。
文学、音楽、画。
これを芸術として観る事に、おそらく異論は無いであろう。
映画というものは、これに加え、「俳優の演技」、「編集」などといった要素を絡め合わせて完成される芸術作品だという。
僕はこの考え方には大いに賛成している。
それでもやはり、映画を観ているときに、ある部分が突出していたりすると、そこばかりを褒めたり、考察したりしてしまう。
でも、この作品を観たとき、そうではないだと感じた。
映画というのは”細かいパーツ”ではないのだ。
この作品で、素晴らしい要素は沢山ある。
アンジェリーナ・ジョリーの演技、画の撮り方、構成。
しかし見ている最中、そして観終わった後も、なぜかいつものように、要素要素に分けて考察することに対して、頭が拒否反応を起こしてしまった。
すべての要素が最高峰であり、その最高峰の要素が、どれも劣ることなく絡めあわされて、最高峰の最高峰が出来上がっている。
なんでもっと早く、こういう作品に出会っていなかったのだろう。
いやでも、今見たからこそ、理解できたのかもしれないけれど。
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これは実話を基にした作品である。
ある日、息子を誘拐された母(ジョリー)は、警察に捜査を依頼する。
捜査の結果、警察は息子を発見。
その子を見たとき、母は言う。「その子は、私の子ではない」。
警察との闘争の末、見えてくる真実と、その先に待っている残酷な結末・・・・
最後に、ジョリー演じる母は、一筋の希望を見出した。
とてもやわらかい笑顔をもってして、この作品は幕引きとなる。
しかし、実話を基にした作品につきものの、その後の経過報告で、僕の中では、悲しさと怒りを混ぜ合わせた様な感情が生まれた。
「彼女は生涯、息子を探し続けた」
この言葉が持つ意味。
・・・・そういうことなのだ。
彼女は死ぬまで、どういう気持ちで生きていたのだろう。
それを思うと、胸が焼けるほど、痛い。
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で、なんだかんだ言いつつ、相変わらず、細かい見方はしてしまう僕。
冒頭、バスに乗り息子を学校へ送り届けるシーン。
学校前に着き、息子を引き連れ、バスを降りるわけだが、ここで母子は手をつなぐ。
この繋いだ手は、アップされるわけでもなく、誇張されるわけでもなく、ただただ一連の動作としてカメラに捕らえられる。
でもやはり、一度カメラの視点を落としてまでも、繋いだ手を写し込んだということには、理由があるのです。
こういうさりげないシーンによって、母子の関係性が捉えられたり。
この後に続く事件のことを思うと、これを見ただけで、なんだか泣けてきてしまう・・・
う~ん、お見事。
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そういえば『グラン・トリノ』も未見。
バカだなぁ・・僕は。
再上映してるところを見つけたら、すぐにでも駆けつけます。
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