2011年3月1日火曜日

梅太@ 雑記:わたしにならできる1つのこと

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 募金というのは素晴らしい制度だと、24年生きてきて・・・いや物心のつく数年間をさっ引いても、10何年生きてきて、初めて思った。

 今日はそんなお話。

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 といって、いきなり話が少し変わる。

 僕の2大趣味として映画鑑賞と読書がある。
 最近は爆発的な勢いで興味の幅が増えてきて、過去を振り返ると時に「よくあのころは趣味が絞れてたなぁ」と思うばかりであるけれど、幅は増えてもこの二つがトップなのは変わりない。
 映画と読書、この二つには、そこに展開されている物語に身を沈めること、登場人物たちが生きている人生を疑似体験すること、そんな共通点があると思う。
 この世界ではないどこかで、自分ではない誰かの考えていることに思いを馳せる、昔から、その行為が好きであった。

 僕は物語を咀嚼するのに、かなり時間をかかかってしまう。それは一つ一つの場面を想像し、台詞の一つ一つの意味を考えると、自然とそうなってしまうのである。
 ご飯を食べるときも、それくら時間をかければきっと健康的なのだけれど、そこは置いておこう。
 
 登場人物たちが置かれている現況を想像し始めると、僕は精神的に結構キツくなる時がある。
 
 例えば「つぐない」という映画の原作となった、イアン・マキューアンの「贖罪」で、戦地に赴いた青年が喉の渇きを必死に耐え、集合場所へ向かうシーンがある。僕はこの場面を読んでいるとき、本気で喉が渇いてしまったし、蛇口をひねれば水が出る・・・という環境に、えらく感謝したことを覚えている。

 勿論ハッピーな描写であれば、そこに身を浸して自分も幸せになれたりもする。
 しかし身を浸すという行為は、場合によってはとても危険な行為だと感じることもある。

 が、それに対する策も、実は持っていたりする。それは「これはフィクションです」と割り切ってしまうこと。僕は意外とバイオレンスな描写に強いのは、実はそんなフィルターをうまく利用しているからである。

 しかし、フィクションでない事例に遭遇すると、このフィルタは機能しなくなる。

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 先日発生した、ニュージーランドでの大地震。災害の詳細を把握したのは夜のニュースであったけれど、救出された人のコメント、まだ救出されてない人の安否を気にする人の姿をカメラは捉えていく。
 その人たちの立場になって、その人たちの気持ちを想像し始めると、僕は今、夜ご飯を悠々と食べていていいのだろうかという気がしてくる。
 気にしすぎだと、言う人もいるかもしれないけれど、映画や読書を通じて培ってきた「誰かの立場になって」という行為は、もう息をするのと同じくらい自然な行為となってしまっている。
 だから、結構つらい。こういうニュースを観ると。

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 また映画の話に少し戻る。

 僕は「キック・アス」を観たとき、ものすごく感銘を受けた。
 根底に流れるテーマとして、「すごいことは出来ないけれど、そんな自分でも出来る小さなことを見つけよう」というのが、あると思う。勝手な想像ではある。
 主人公:デイブはマンガやアニメに出てくるヒーローに憧れる青年。ある日、「現実世界にヒーローがいないなら、俺がなってやる」と意気込み、全身タイツを買い、”キック・アス”と名乗って町へ繰り出す。
 ヒーローとしての最初の仕事は、車上荒らしのチンピラを退治することであったが、彼は返り討ちにあい、瀕死の重傷を負う。
 回復して、もうヒーローは諦める・・・とはならず、彼はヒーローとしての活動を再開することを決める。
 復帰後の最初の仕事は、なんと、迷子の猫を探すこと。
 チンピラ撃退からしたら、偉くスケールが下がってしまったが、それが彼なりの、”今の自分に”出来る精一杯なのだと思った。

 自分には凄いこと出来ないし・・・として退くでなく、それでも自分に出来る小さなことを探す。その気持ちこそヒーローの第一歩。
 僕はこの一連の流れに偉く感動した。

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 さて、話を戻す。

 今、地震の被害で苦しんでいる人に僕が出来ることってなんだろう、と考えてみる。

 現地に飛ぶなんて出来ない、直接助けることはできない。
 それでも何か出来ないか。

 として、浮かんだものが募金だった。
 募金なんて、今まで真剣に考えたことはなかったが、浮かんだことはそれだった。
 そして、募金についてちょっと考えてみると、募金は、渡す相手の顔が見えるわけではない。ついつい「僕には関係ないから」とスルーしてしまう。
 僕もそうだった。

 でも現に苦しんでいる人がいる、というのを、テレビでも新聞でもいいから観て、その人たちはいまどうしているだろうと考え、いてもたってもいられなくなる人が、おそらく世界中にいて、それでも何かしてあげられること・・・として考え出されたのが、きっと募金という行動の始まりだったのだろうと、今は思う。

 だから、ニュースを観た翌朝、僕は募金をした。
 僕でも出来る小さなこと、であった。

 相手の立場になる・・・という行為は、多分これまでも出来ていたはずだが、それに対して何かアクションを・・・という心持ちは、恐らく「キック・アス」の物語を咀嚼しなければ至らなかった考えだ。
 災害と、映画と、平行して考えることは不謹慎になるのかもしれないけれど、でもそのおかげで気付いたというのは事実である。

 結び、が思いつかないけれど、ちょっとここに、思ったことをつらつら書いてみた。

 募金という物に対し、考え方が変わった週であった。

 セブンイレブンでは3/6まで募金を行っている様ですので、気付いたら少し、入れてみて下さい。

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