この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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エドガー・ライト監督最新作『スコット・ピルグリムvs.邪悪な元カレ軍団』
ラモーナ風に訂正するなら邪悪な元”恋人”軍団。
ストーリーは。
バンドのベースを担当する青年:スコット・ピルグリムは、ある日出会った赤毛の女の子:ラモーナに恋をする。彼女をゲットしたい・・・猛烈にアタックを続けるスコットには、しかし大きな壁が立ちふさがる。
「わたしと付き合いたければ、7人の元カレを倒さなければいけないの」
スコットは元カレを倒し、ラモーナをゲットする事ができるのか。
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オマージュ作品とは?
『魔法にかけられて』というディズニーの映画を見てから、オマージュ作品というジャンルの立ち位置を考えることが多くなった。
そういう作品を作る人というのは、元となる映画(に限らずだけど)が好きで好きでたまらない!という人で、その思いは、元ネタを知らない・興味がない人をも巻き込み、その良さを伝えてくれることがある。
『魔法にかけられて』は、ディズニーの世界の住人が、現代のNYに放り込まれたとき、いかにとんちな行動を起こすのか・・・というコンセプトが面白く、しかし確実に異なる二つの世界:現実世界と理想郷を比較することで、ディズニーが昔から作り上げたかった世界とは何だったのかを教えてくれ、ディズニー・プリンセスというジャンルに特に興味の無かった22歳の男性が、劇場でボロボロ泣くという事態に陥ったわけである。
さて、この『スコット・ピルグリム』という作品は随所にTVゲームをオマージュしたシーンが見受けられる。
本作を見た後、僕はTVゲームとは一体何なのだろうかというのを考えた。
今回はRPGに焦点を絞ることにする。
RPG:ロールプレイングゲームは、ゲーム内で割り当てられたキャラクターを操作し、町の人と接したり敵を倒して経験値を積み上げながら、与えられた課題をクリアしていく。課題をクリアすることでまた経験値を得、ラスボスを倒して終局を迎える。
すでにそれが体系化されすぎて、ゲームとはそういう物だと割り切ってしまいがちであるけれど、ゲームとはそもそも、現実に起こる出来事の可視化によって生まれた物なのではないか・・ちょっと考えてみる。
現実で、僕は誰かと出会う。話す。
仕事をして、知識を得る。技術を得る。
でも「これをして得た経験」とは、具体的な数値として与えられるわけではない。それを可視化したものが、ゲームで言うところの経験値というものだ。
強い敵であればあるほど、得られる経験値が高い。
現実に置き換えれば、大変なプロジェクトを達成させたとき、その人はとても大きな経験をしたことになる。それらの経験は、僕たちを次へのステップへ押し上げてくれる。これがレベルアップというやつだ。
ゲームの要素を一つ一つ紐解くと、実は現実世界と密接に関係している物だと言うことが見えてくる。
(他人の家のタンスの中から10ギル出てくる・・というのは、どう考えるべきか悩むところだけど)
もちろん、可視化する事で行為が頭の中で単純化されてしまうという部分もある。
現実世界はゲームとは違うのよ!と、よくよく親に怒られたりもするが、それはそういうことで。様々な出来事を通じて、少なからず経験値を得てはいるのだけれど、それが具体的に報酬として見えてこないことにイラだってしまう人もいる。
本作では7人の元カレを倒すことで経験値を得、スコットはレベルアップしていく。いかにもゲーム的。
けれど現実では、段階こそ明確には見えないけれど、実際何かを達成させるまでには知らないうちに僕たちは段階を踏み、一つ一つを経験して、成長していく。
現実で起こる出来事:意中の女性をゲットするまでという道のりを、ゲームと絡め合わせることで、ゲームという物が現実世界ではどういう立ち位置にあるのかということを考えさせてくれた。
小さな経験:”何か”を見逃さないこと。
僕がこの作品で一番見事だと思ったのは終盤、ラスボスにやられてしまい、死の世界(?)で自分を振り返るシーンだ。
実力としてはラスボスと対等に渡り合える程の力を得ているスコット。ラスボスと戦っている最中に、スコットの元カノが現れ、ラモーナに対しケンカをふっかける。この泥棒ネコ!と。そして女性二人のキャットファイトが始まるのだが、このときラモーナは事情(実は自分と二股をかけられていた)を知らない。ケンカの仲裁に入り真相を打ち明けるスコットは、同時に二人の信頼を失い、戸惑い、一瞬の隙を突かれ、ラスボスの前に倒れる。
そして場面は代わり、死の世界で、スコットは自分の行動を振り返り、こう言う。
「あ、何かを学んだ気がする。あ~、生きてればやりなおせるのにな~」
と。
僕がこの言葉のどこに惹かれたかと言えば、”何か”という非常に曖昧な表現だ。
その”何か”具体化させることが、人間が成長していく過程であると思うし、それを具体化させ、自分のものとする行為を積むことで、大人へ近づいていく。
この”何か”という表現は、どこか子供の持つ曖昧さを感じさせたけれど、形作られていないふわふわした考えを見逃さず、自分の中で形にしていくことが、人間の成長過程では大切なものなのではないかと思う。
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以前『平成ガメラ三部作』のオールナイト上映での舞台挨拶で特技監督の樋口さんが『ダークナイト』と本作を比較していた。すごく意外な比較であって、でもその時僕の中には引っかかるものがあって、以来色々と考えていた。
どこまでもリアルに描くことに徹する『ダークナイト』。
どこまでもリアルを無視する『スコピル』。
メッセージの重量感が評価された『ダークナイト』は、後の映画に確かに影響を与えた。物事を真面目に語ること。ただその真面目さ・リアルさ・完璧さ故に、僕の中では実は、今一歩両手を広げて最高の作品といえない作品であったわけで。
そんな作品からすると、かなり軽いノリで見れてしまう『スコピル』は、ちょっと軽視されてしまう部分もあるかもしれないが、軽いノリの中で何か重要なものが潜んでいる。絵本の世界とか、そういうのに近い。
しかし何か表現したい思いというのはそれぞれあって、それをどう形にするか、という違いでしかない。
どちらが正しくてという問題ではなくて、ただ、どちらも一つの表現であるということ、同じ土台で比較しても、何ら問題のないこと、ということを、樋口さんは言いたかったのではないかと、過大解釈をしている。
映画ってこれでいいんだ。
ということを『スコピル』を見て感じる。
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予告編を観たときからずっと、どんな作品になるのだろうか・・・というのが気になって気になって仕方なかった。
同監督の前2作『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』は、全編に散りばめられた幾多の映画へのオマージュに彩られ、使い古されたネタも、加工次第でこんなにも面白くなるのかとただただ笑わせてもらったけれど、それ以上でもなければそれ以下ではなかった。
いやそれは悪い意味で言っているわけでなく、”純コメディ””純パロディ”としての立ち位置を追求していく監督の姿勢はとても好きで、それこそ映画だろう、と胸が熱くなるシーンが沢山あった。
本作も、同じである。
が、ぶっとび過ぎてもはや制御不能な中に、ものすごくうまい部分があったように思う。それはマイケル・セラのキャラクター性と、全国のマイケル・セラ・・いや、全国の青年が迎える恋の場面と、エドガー・ライトの語り口が、絶妙にマッチして生まれたように思う。
でもエドガー・ライトはどこまで意識してこれを作っているかは分からない。ただハチャメチャにこういうのが作りたかった・・・というのが、実のところなのだと思う。
その純粋な思いに、本作でもまた胸を熱くし、泣いてしまった。
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長々と書いてしまい、なんだか重苦しい雰囲気な映画ととられてしまうかもしれないけれど、以下に掲載した予告編の様に、実際のところハチャメチャな映画ですので、劇場で見て、みんなでガハガハ笑ってほしい、この春最高にオススメしたい作品です。
本年一位も嘘でないかも。
↓↓予告編↓↓
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