2011年5月22日日曜日

梅太@ 劇場:メアリー&マックス

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 「アフターダーク」という村上春樹の小説は、主人公の女の子が渋谷のファミレスで深夜に読書をしていると、ある男がいきなり相席してきて、その男と関わったが故に多少のいざこざに巻き込まれるのだけれど、結果的にはとりとめて何も起こらず夜が明けるという作品。
 筋書きだけ読んでも特に興味は惹かれないかもしれないし、内容としても大きなスペクタクルがあるわけでもないけれど、不思議とこの作品は僕の心に引っかかる。

 この物語の中で描かれる出会いは、主人公の女の子と相席した男を別にすると、ほとんどが一過性のものになる。ラブホの店長、暴力を振るわれた少女、コンビニに落ちていた鳴り続ける携帯電話。それぞれの視点に立てば、各々それなりの結末を迎えるのだが、主人公目線に立つと、実は何も解決はしていない。ふとしたきっかけで出会って、通り過ぎるだけのものである。
 ただこの物語を自分の生活に置き換えてみたとき、僕の普段の生活も、気付かぬ内に出会いと別れを繰り返しているということに思い至った。
 例えば電車に乗っていて、自分の隣に座った人がいる。その人にはその人の世界があって、でもたまたま何かのご縁で、とあるタイミングで僕の隣に座る。一瞬、世界が交わる。しかし何もなく、それぞれの道へ向かって歩き始め、世界は離れていく。人でなくても良い。花でも食べ物でも景色でもゴミでも、生きている内は何かに出会い、そして分かれる。

 「メアリー&マックス」という作品は、オーストラリアに住む内公的な少女が郵便局で親を待つ間、暇を持て余して住所録を眺め、「そうだ、この人に手紙を送ってみよう」と思い立ち、行動に移す。その手紙はニューヨークの、これまた余り外向的とは言えない中年男性の元に届き、二人の文通が始まって・・・というものだ。
 この二人の出会いは全て、ふとした思い立ちの積み重ねで成り立っている。
 親と一緒に郵便局に行く。暇を持て余して住所録を読む。ニューヨークって不思議な名前の人が多いねと思う。そうだ、手紙を送ろうとなる。少女の道が、見知らぬ誰かの道と交わろうと、行く先をじわりじわりと変えている。 相手先の中年男性が、「なんだこの手紙は!?」と突っぱねてしまえば、道は交わることはなかった。だが手紙の内容が男の琴線に触れ、少女の好奇心に答えようと、お返事を返す。二つの道は交差を始めた。

 出会ったものに興味を持ち始めると、自分と相手の世界は交差を始め、自分にとって知らなかった道が見えてくる。その交わった道について、進んでいる内はその出会いが自分たちにもたらした大きな影響には気付けないけれど、ふと立ち止まり振り返ってみると、出会う前に歩んでいた道の延長線を歩いているだけでは一生気付けなかったことを教えてくれたりする。全部が良い影響とも限らない。悪いことばかりでもない。また、与えてくれた影響を見落としてしまうこともままある。それでも出会いというのはそれほどに大きなものであって、「へぇ」と一瞥して過ぎ去って行かせるには、余りにも惜しいことなのだ。

 見えるもの・出会うもの全てと付き合うことは、一人の人間のキャパシティとしては難しいことだけれど、でも興味を持ったものとは出来るだけ、付き合いを深めていきたいと思うし、また相手にも、自分に対して興味を少しでも持ってくれたなら、それはとても嬉しいことだと思う。

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 「メアリー&マックス」について、その内容にはほとんど触れておらず、また鑑賞された皆様方においては、全く違った印象を与えられていると思う。
 これは事実を元にした作品で、しかしクレイアニメーションで描かれているが故に、どこか寓話的な雰囲気が流れている。欠点を受け入れて生きていくこと、そんなメッセージを伝える上で、アニメを用いてダイレクトさをグッとと抑えることで、かえって想像の幅は広がっていった。思いを伝えるための表現手法の選定というのはとても難しいと思うが、本作の様にガチっと合ってしまうと、その物語の人に及ぼす影響の可能性は、無限に広がる様に思う。僕にとってこの作品は、交わる二つの道というのを見つめるのに、とても良い影響を与えてくれた。

 良い出会いでした。

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