2010年9月22日水曜日

梅太@ 雑記:肖像と想像。騒々しい中での発見。 ~『ポーランドの至宝』 in 東京富士美術館~

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 以下、映画の内容とは直接的には関係ありません。
 が、映画についてちょっと触れている部分もありますので、掲載します。
 法に触れるわけでもないので、ご勘弁を。

 ただ、映画もやはり”表現媒体”の一つであるので、他の分野の媒体を見るのも、良い刺激になります。

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 『ポーランドの至宝』
 東京富士美術館にて。

 祝日に行ったのですが、すごい混みよう。
 大人はともかくとして、子供が多いのにちょっと驚いた。
 特別展示と常設展示が一括料金で観れるのは良心的でした。

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 まずは常設展示から・・・

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 『西洋絵画コレクション』

 最初の部屋で、肖像画に囲まれる。

 顔を正面から捉えたもの、横顔、俯き顔。
 一口に肖像画といっても、描き方は様々であることに気付く。
 当たり前といえば当たり前だけれど、これだけ一度に見せられると、嫌が応にも、「なぜ違うの?」ということを考えてしまう。
 ここから僕の思考タイムが始まる。

 ある人を、キャンパスに描こうとする。
 恐らく画家は、その被写体の一番魅力的な姿勢を捉えようとする。
 俗な言い方をすれば、画家の「あ~、その姿勢”ツボ”だわ~」という思いのもとに描かれる。
 この”一番”は勿論主観で、他の人が描こうとすると、きっと別の姿勢で描かれるのだと思う。

 正面、横、という姿勢の他に、「何かをしている時」を捉える絵もある。
 例えば本を読む女性を美しいと思ったとき。
 恐らくその女性は、普段から本を読んでいる人だと思う。

 最近、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本を読んでいて、「美しいとは、合理的だということと同義である」という記述があった。
 この著書で例に挙げているのは、スポーツ選手のフォームである。
 毎日の努力の結果、選手のフォームは完成するのだが、そこには無駄な力は一切無く、ただ良い球を繰り出そうという一つの目的の為に体が合理的な動き方をする・・・とある。それを人は、美しいという。
 これは成る程と思った。

 例えば映画でも、今回は野球選手の役をやります!となったとして。
 訓練を重ね、それっぽいところまでは辿りついても、やはりどこかプロとの差異を感じてしまうときもある。
 (これを感じさせないのがプロの役者であり、プロの編集技術だと思うけれど)
 やはり合理的な美しさというのは、日々の”慣れ”から生まれてくるものなのだと思う。

 だから、他者が見て「あ、あの人の本を読んでいる姿、素敵だな」と感じたときは、恐らく普段から、その人は本を読んでいるはずだ。
 その人は、本を読むのに合理的な姿勢、所作をしているからこそ、素敵だと思わせるのだ。

 表現者という所に話を戻すと。

 画家が「あ、これはいい」と思った被写体を絵として形にしようとしたときに、その表現の方法は沢山ある。
 それがいわゆる、絵の「タッチ」の違いというものなのだと思う。

 よく、絵を評価するときに「タッチがどうこう」というワードを聞く。
 特に絵画に精通していない僕としては、双子の兄弟が南とどうこうという話しか浮かばなかったが、今日、その認識を改めた。

 画家がそれを見たときの印象を”どう”表現しようかと考えたとき、絵のタッチが決まってくるのだと思う。
 手法の如何に意味を求めるのではなく、「何故この画家はこのように描いたのか」というところに思考を持っていくと、かなり面白く見えてくる。

 字もそうらしい。
 何を表現しようか、その文字にどんな願いを込めるかで、書体が変わる。
 歌舞伎の看板などに使われる勘亭流という書体は、線と線の隙間が極端に少ない。
 これは客席が埋まりますように・・・という願いを表現するために生まれた書体だという。
 絵画でいうところの、タッチに繋がる。

 肖像画に話を戻して。
 顔を描く際、シワや肌の質感・色合いを細かに描いているのもあれば、のっぺりした描き方もある。
 のっぺりした人は、多分、その生活が非常に緩慢な人なのだと思う。
 それをどう、キャンパスに描こうか・・・となったとき、シワなどの細部は捨て、ただのっぺりと描く。
 細かに描くことこそが、その人を完全に再現することではないのだなと。
 そんな絵は、見る側に「あ~、きっとこの人はこういう人だったんだろうなぁ」と思わせる。

 ここまでの総括として。

 被写体の魅力を引き出そうとするために、絵を描くための手法がある。
 先に例に挙げた本を読む女性は、この二つが美事に掛け合わされていたように感じる。
 元々、本を読む女性を見ているのは好きな僕ですが、普段そうは思わない人でも、この絵を見たときはきっと「素敵」と思うのだと思う。
 それこそが画家の力であり、その魅力を伝えたいとする、画家の情熱なのだと、思いました。


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Carey Mulligan in 『An Education』(17歳の肖像)

 箸休め。
 完全に余談だけれど、僕は横顔が好きです。
 いや、aikoの話ではなくね。
 せっかくだから、顔繋がりの話でひとつ。

 最近、自分で撮った人物写真を見返したのだけれど、正面を向いてる写真は少なかったですね。
 意識してるつもりはないのだけれど。
 これが好みというものなのでしょうか。

 何の影響かと言えば、映画の観過ぎなのかなぁ。
 映画の登場人物って、例えカメラ目線であったとしても”僕”を観てるわけではないですからね。
 でも、その姿にグっと来ることが多かったこの7年間が、写真に現れてるのかな。
 
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 話は戻しますが、まだ常設展示の話。

 冒頭で書きましたが、今日はかなり混んでいて、小部屋では遠くから眺めるしかないというところもあったりしました。
 しかし、それが功を奏すことになるとは。

 小部屋に入り、遠めに観たとき綺麗と思った絵が、苦労して眼の前に出てみると、線も色の境界もぼけ、なんだかわからないものになっている絵があった。

 成る程。

 美術館となると、ある程度近接して絵が見れる機会とあって、喰い入るように見つめてしまうのが常だけれど、絵を見るのも、適切な距離というのがあるのだなと思った。
 勿論美しいと思うその距離は人それぞれだし、画家もそれを想定しているのかわからないけれど、僕はそう思った。

 僕は最近、映画を観るとグっと考え込んでしまう時がある。
 あの台詞の意味は?
 あの描写の意味は?
 ミクロな視点に惑わされ、わからなくなってしまう場合もある。
 しかし、そんなときは一歩二歩、引いて見て、全体像を眺めてみると、そのミクロは全体を構成する要素の一つに過ぎないことに気付く。ただしそのミクロを抜いてしまうと、全体像が崩れてしまう。
 全が個を成し、個が全を成す。
 常に意識すべきところだなと感じました。

 混んでいるからこそ気付けた点。
 怪我の功名、不幸中の幸い。

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 さて、特別展示『ポーランドの至宝』

 実をいいますと、僕は常設展示で結構疲れてしまったのです。
 メインはこちらなのに。
 おいしいものを後に残しておく性格が仇になりました。

 そして流石に企画ものとあって、混んでる混んでる。
 しかし今日は何の日?といえば、お年寄りを大切にしなければいけない日であり、前のおじい様おばあ様を急かす訳には行かない。でも並ぶ体力が・・・

 そんなわけで、広告にも載せられていたレンブランドのモナリザだけはしっかりと観て、あとはスルスルと行くことにしました。
 レンブランドのモナリザは、『額縁の中の少女』というタイトルの絵で。
 キャンパスの枠の部分に、すでに額縁が描かれているのですよね。
 でもその絵は額縁の中に入っているわけです。
 2重の額縁。
 これは、笑いを誘っているのでしょうか?
 そういう不謹慎な考えを持つのは、僕だけですかね。



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 結局のところ、展示会も感想も、前菜で満足してしまいました。
 メインのこの扱い、ご勘弁を。

 『銀座鉄道』はスペースも小さく、それでも多少疲れましたが、本格的な美術館ともなると敷地が比較にならず、披露も倍増。

 でも、精神的にはとても充足した感じで、良い疲労感です。


 次は国立新美術館で『陰影礼讃』を観る予定。

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