2010年8月1日日曜日

梅太@ 雑記:『銀座鉄道』の昼

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 以下、某SNSに書き込んだ写真の展示会の感想なのですが、恐らく「”何か”を表現する」という意味で、映画にも精通する(というか、精通させるべき)部分が含まれていますので、コチラにも書いておきます。


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 「写真には物語がある」

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 今日は先輩のご紹介で、銀座はリコーフォトギャラリー:RING CUBEにて開催中の写真展示会『銀座鉄道』に行ってきました。
 (HP ⇒ http://www.ricoh.co.jp/dc/ringcube/event/ginzatetsudo.html)

 感想を書く前に、まず話があらぬ方向に飛びます。

 僕の最上の趣味は映画鑑賞。
 最近は鑑賞後、”観客としての視点”より、”作り手の視点”を意識するようになった。
 (いや、僕は作ってないけれど)

 これは大学での映画の授業の影響や、”芸術”というものはいかなるものか・・というのを、以前友人と話したことも関係している。
 
 友人曰く、

 「芸術とは、自分が発信したいと欲する”ある思い”を、何かしらの媒体を通して表現したもの」

 らしい。
 この言葉は、今でも僕の”芸術”の考え方の主軸になっている。
 これを意識し始めたことが、先に述べた”作り手の視点”を考え始めたことに繋がる。
 そして”作り手の視点”を意識すると、自分がこれまで精通していない分野のものに対しても、初見でもかなり楽しめるようになった。

 例えば。

 昨年初めて観た歌舞伎。
 何の予備知識もなく観にいったわけだけれど、そこから得られるインスピレーションは沢山あった。

 大衆娯楽とはなんぞや?、ということ。
 歌舞伎って、も~~~ったり台詞を言ったりするけれど、それは何故や?ということ。
 見得とは何の意味があるのか?、ということ。
 そして、何故歌舞伎というものは、「このような表現方法」を選んだのか?、ということ。

 いくつか挙げてみて、劇の内容に一切触れてないという部分にお気づきの方もいるかと思いますが、うん、それは御尤もな話で、恐らく僕の今後の課題になるとは思う。

 ただ僕としては、映し出された”そのもの”よりは、その裏にある作者の思いに、思いを馳せるのが好きなのだ。

 それを考えることで、その人と成りが見えてきたり。
 文化が見えてきたり、歴史が見えてきたり。
 そういう楽しみ方が、”今の”僕のトレンドなわけである。
 今後、どうなるかは分からないけれど。

 「作り手は何故、こういう表現をしたのだろう」
 それを考えることが、今の僕の何よりの楽しみなわけだ。

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 ここからやっと、展示会の感想。

 写真”だけ”を長時間眺める機会はなかなかなく、しかも展示会なんて初めてだったので、なにをどうしたらいいのか。
 しかし受付らしい受付もなく(係りの人とかもいなかったし)、気張らずに観れました。
 また外の熱気・喧騒を、室内の冷気・静寂から窓を通して眺めるというのも、楽しかったです。
 六本木に、こんなカフェがあったんだよなぁ・・・話が逸れた。

 入り口には、この展示会のコンセプトが書いてありました。
 恐らく何をするにもコンセプトというのは考えられるだろうけれど、僕はそこを意識するのも好きなのです。
 今回の展示会のように、沢山の写真を飾る場合、見る側の意識をどこへ持っていくかという手助けにもなりますしね。
 特に僕みたいに、普段写真を眺めない人の場合、どこをどう見ればいいかという、一つの指標になります。

 この展示会は、タイトル『銀座鉄道』にあるように、鉄道に関する様々な場面を切り取っていました。

 都会の電車、田舎の電車。
 それらを観ていると、旅をしているように感じられたり。
 新旧モデルの電車をみて、鉄道の歴史を感じられたり。
 また電車そのものではなく、レール、そこで働く人、駅を使用する人の日常風景などを切り取っていたり。
 およそ「鉄道」と聞くと、素人考えでは電車を撮ればいいやと思ってしまいがちです。
 しかしなるほど、周辺を写すことで、電車は孤立しているものでなく生活に密着しているものなのだな・・・と、改めて感じました。

 そしてこの展示会で面白かったのは、やはり複数人の写真が一度に見れる・・・というところでしょうか。
 コンセプトに基づき、「鉄道を撮る」・・・といっても人によって見方は違います。
 周辺の景色を入れ込んで、自分が見たその全体的な雰囲気を切り取る人。
 マクロな視点でモノを見る人。
 レールを写すにしても、晴れの日雨の日で違ったり。
 春夏秋冬があったり。
 撮影者側でも、ツボに入る風景と言うのは違ってきます。

 でも「表現したい何か」が込められていれば、それはやはり素晴らしい芸術作品です。
 以前先輩が、

 「写真は指先一つで作れる芸術作品」

 と言っていましたが、まさにそうだなと。



 ある一つのコンセプトに沿って写真をとっても、その視点や価値観は枝葉のように広がっている。
 なんだか一本の木を見ているみたいで。
 なるほどそれが展示会と言うものか・・と。

 言い過ぎた?

 

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 さて、ここからは僕のディープな世界に入っていきます。

 以前観た映画で、こんな台詞がありました。

 「写真には物語がある」

 ここでまた話を少し逸らしますが、僕は散歩が好きである。
 といっても何を見よう!というわけではなく、唯、その街の雰囲気、その街の”今”の雰囲気を、歩きながらゆっくり感じ取るのが好きなのだ。

 で、長らく散歩してきて思ったことは、

 「”今”を観るということは、同時に”過去”を観ることではないか」

 ということ。

 例えば僕が「いいなぁ」と思った、一軒の家。
 それは僕が観る前から、そこにあったわけだ。
 僕が散歩し、その建物を見た瞬間、急にそこに登場したわけではない。

 僕が今観ているこの建物は”今”の様子だけれど、その”今”にいたるまでの”過去”が、当然のごとく存在するわけで。
 そこを感じ取るのが、僕は好き。

 さて、話を戻そう。

 写真は”今”を切り取るもの。
 例えば一輪の美しい花を、「8月1日 11:30:12」に撮影したとする。
 しかしその花には「8月1日 11:30:11」の姿があったわけで。
 もっと言えば昨日の姿、一週間前の姿(もしかしたら種かもしれないけれど)も、あったはずだ。

 種を植えられ、水を与えられ。
 頑張って芽を出して、光合成して、成長して。
 そしてある日、ある人にその美しさを見出され、撮影された。

 ある瞬間を切り取るのが写真だけれど、その「ある瞬間」に至るまでには沢山の物語があり、その「次の瞬間」から、その花はまた新しい物語を紡いでいく。

 また、その写真を撮った人にも、その花を撮影するまでに様々な物語があったはずだ。
 そしてその物語の途中、ふと眼を奪われ、その花を撮影する。

 よく、

 「同じ写真は二度と撮れない」

 と聞く。
 それは表面的に言えば、光の加減、天候などのことを指すと思うのだけれど、内面的に観ると、僕は、上記したようなことが関係してくるのではないかと思う。

 ある花の物語。
 それを撮影した人の物語。
 それが「8月1日 11:30:12」に、偶然交差し、一つの作品が生み出される。

 それはもう、絶対に撮れない一枚で。

 そして誰かがその写真を見たとき、その写真を観て、その誰かが心打たれたなら。
 きっとその「物語」は、他の人へ伝わり、派生していく。

 そう考えると、写真って何て素敵なものなのだろうと、思えてくる。

 ロマンチックすぎた?




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 結局のところ、写真展の感想は少ししか書いていないですね。
 宣伝にもなりゃしない。まったく。失礼致しました。

 僕みたいに普段写真をじっくりと眺めない、楽しみ方が分からないという方でも、肩の力をフっと抜いて観れる空間ですし(あと冷房効いてますから)、休日を少し使って、訪れてみてはいかがでしょうか。



 

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