この記事は 公開初日にアイアンマン2が見れなかった 梅太 の名の下にお送りいたします
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幸いにも、僕はこれまでの人生で、コンスタントに”子供”と付き合っている。
最近は行ってないけれど、卒園した保育園の夏のイベントに参加させてもらったり。
実家に帰れば、13、18歳離れたチビっ子たちがいる。
彼らと付き合っていると、気付くことがある。
彼らは無意味に、走る。
とにかく走る。そしてハシャぐ。
僕達大人みたいに、「体力の温存」というものは一切考えない。
ただひたすらに暴れ、力尽きる。グッスリ寝る。
お父さんに背負われ、家路に着く。
静かになったと思いきや、次の日はまたテンションMAX。
この回復力は欲しい、と、最近思う。
確か斉藤孝氏の本であったと記憶しているが、次への意欲は”完全燃焼”あってこそのようだ。
無尽蔵かと思われる体力は、日々走り、無意味に走り、完全燃焼してこそ・・・
理論的でなく、体でそのことを知っているのかもしれない。
さて、自分の小さい頃を思い返してみると、やはり走っていた。
これでもか!とエネルギーを使う。
なんで?と考えてみるが、答えはみつからなそうだ。
なんだか凄く高揚していて。
内包しているエネルギーをとにかく爆発させたくて。
無性に、走らなくても良い局面なのに、走っていた。
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宮崎駿は、常に、「”今の”子供の為に」映画を作っているようだ。
ようだ、というか、ヨーダ、というかそうなんだと思う。
僕は、ポニョを観たときに、そのことを認識した。
話が長くなるから、それはまた別の機会にする。
ジブリの作品は、大抵子供が主人公である。
そしてその主人公達は、気持ちいいくらいに良く走る。
恐らく宮崎駿は、「子供の為」の映画を作るために、「子供」というものをよく観察しているのだと思う。
面白いところは、”今の”子供ということを念頭に見てみると、トトロだろうがポニョだろうが、いつの時代の子供も走っていることだ。
時代は移ろっていくけれど、子供の内に潜むエネルギー、そしてそれを発散しようとする衝動は、変わらないみたいだ。
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さて、何故こんな話をしたかというと、理由はこれから3行ほどに及ぶ。
仕事を終えて帰路に着き、TSUTAYAに寄り、『かいじゅうたちのいるところ』のBlu-rayを買ったのだけれど、店を出た時「これから見ると日を越すなぁ」・・・と思い立ち、予告編だけ改めて見返してみたら、これがとんでもなく素晴らしい予告編と言うことに気付いたからである。
予告編では、主人公:マックス君を始めとして、かいじゅうたちが兎に角走り回る。
この、無駄に走り回る姿を見ていると、なんだかそれだけで涙が出てしまうのだ。
「子供」というものを良く表現した美事さ、というのもあるし、作品をよくよく理解し、”そういう風”に予告編を構成したスタッフの腕前に感銘した、というのもある。
あとやはり使用曲、Arcade Fireの『Funeral』も素晴らしい。
(特に1:27あたり、走る後姿をポンポンポンと繋いでいく編集は圧巻)
ただやはり一番の理由は、この無意味なエネルギーの爆発が、僕の眼に、何故だか異様に煌いて映ってしまったからだ。
今はもう、無駄に走る、ということをしなくなったなぁ。
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はてさて、以上のような観点からすると、子供はとても素敵な存在と思えてくるが、彼らは時に、”かいじゅう”と化す。
こちらが気にしていること、言葉にはしたくないことを、ズケズケとハッキリ言ってくる。
彼らは抑えるということを知らない。
なぜなら子供は、エネルギーを爆発させる存在であるから。
しかし彼らは、それがもたらす破壊力を知らない。
自分ではイイコトを言っているかと思いきや、知らぬうちに他人を傷つけてしまう場合もある。
いつの間にか恨みを買ってしまう場合だってあるかもしれない。
子供の、いや、”かいじゅう”の破壊力と言うのは凄まじいものだ。
それが意識してやっていることでないから、なおさら始末が悪い。
このことを素晴らしく描いているのが平成ガメラ3部作の終章:『イリス覚醒』であるが、これもまた別の機会にしよう。
では僕達大人は、いつ、”抑える”ということを覚えたのだろう。
「これが相手を傷つける」と、いつ、自覚したのだろう。
その、”いつ”、”どうやって”は、恐らくは一瞬のものであったと思う。
自分で「認識した!」と思えないほど、一瞬のものであったと思う。
その一瞬を、ゆっくり、そして優しく教えてくれるのが、『かいじゅうたちのいるところ』である。
”いつ”は、人によって違うと思う。
”どうやって”もそうだけれど、僕がこの作品を観て出した一つの答えとしては、「相手の立場になる」と言うことだと思う。
「これを言われて、これをされて、相手はどう思うのだろう」
自分を相手に置き換える。
それを意識し始めたとき、それこそ、大人へのスタートなのだと、この映画は教えてくれたように感じる。
勿論、意識し始めたからと言って、全てうまくいくわけではない。
大好きだから、ケンカしたりもする。
近くに居るのに、見えなくなったりもする。
相手のことをよく知っているはずなのに、時々わからなくなったりもする。
さて、そういう時どうしたらいいだろう。
と、考え始める。
そうやって少しずつ、”相手”を意識して、僕達は大人になっていくのだと思う。
坂本真綾:『走る』
やはり菅野時代のマアヤはいいなぁ。
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予告編の約2分間を、思いっきり引き伸ばしてみた。
ということは本編100分を見たとき、僕はどうなってしまうのだろう。
『かいじゅうたちのいるところ』感想↓
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