この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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さて、08年を象徴するこの作品。
劇場で観たときは、ラストシーンの強さに潰されそうになった。(そう、”強さ”という言葉が良く似合う)
DVDを観て、改めて考えてみる。この作品の強さは、どこから来るのだろう。
と、前フリをしておきながら、少し脱線を。
~~~ すべては計算のうちなのか? ジョーカーの行動 ~~~
本作のジョーカーには、「狂っている」という言葉が良く似合う。
予告編を見る限りでも、その狂い様が気持ちよくて爽快であった。
しかし初めて本編を見ると、「彼は本当に狂っているのか?」と、ふと思った。
外見の狂い様とは違い、彼の言動・行動は実によく計画されている。理に適っている。
ジョーカーの楽しみは唯一つ。「人が、そして世界が狂っていくのをみる。」
彼は、銃創に弾を込めているだけなのだ。引き金を引くかどうかは、その人・その世界次第。
でも銃の点検は怠らない。
どのように整備すれば、弾詰まりを起こさずに対象のど真ん中を撃ち抜けるのかを、ジョーカーは知っている。
では何故、狂ったような振る舞いをしているのか。
きっと、”狂う”というのも計算の内であるからだと思う。
それは、説得力というのにも少し似ている。
例えばプレゼンをするとき、内容は同等として、スーツを着てしっかりと話している人と、ダボダボのシャツを着て発表している人、どちらが説得力があるだろうか。
ジョーカーの場合もそう。
人を狂わせるのであれば、自分が狂っていたほうが説得力がある。
メイク・外装・話し方。どれもメチャクチャなのだけれど、彼の持つ唯一無二の楽しみと、行動信念。
彼を目の前にして、狂わないほうがおかしいのだ。
ジョーカーはすごい。
ここから今日語りたいこと。
~~~ なぜ、リアルに徹したのか ~~~
今年を象徴するアクションものとして、この作品と『スピードレーサー』が挙げられると思う(※梅太基準)。
『スピードレーサー』はオールCG。そして『ダークナイト』は実物を用いたリアルさ。
手法は違えど、共通項は”徹底していること”。だからどちらも大好き。
前作『ビギンズ』では、まだどこかにファンタジー色というか、コミカルなところが伺えた。
ウェインタワー(だっけ?)とか、CGで描くモノレールとか。
なぜCG全盛期の中、続編である『ダークナイト』は実物を使用することに徹底したのか。
実物を用いた迫力。重み。そう、この作品は、アクションに重みがある。
視覚的にも音響的にも、そして役者陣の殺陣にも。
でもなにも、そういう迫力を持たせるためだけに、リアルに拘ったはずはない。
やはり、それは前節でも少し触れたけれど”説得力”を持たせるためだと思う。
何に説得力を持たせるかといえば、それはテーマに、である。
「英雄として死ぬか、悪として生き残るか」
気高い精神を見せ付けるか。泥にまみれても、構わず意地で生き続けるか。
この選択は、今後のバットマンの運命を示唆する重要なものである。
ブルースがどちらを選ぼうが、そのチョイスについて、観客が納得できるだけの何かが必要である。
その何かが、”現実の重み”。これがなければ、ラストが生きてこない。
それこそが、実物に拘った理由であると思う。
あのラストは、それ以前の2時間20分で見せ付けた、徹底的な現実感があってこそ。
だから、ラストが重い。重いのだ。
鳥肌が立つほど、そして思わず涙ぐむほど素晴らしいのだ。
ハーヴィ・デントがあんなことになってしまう。ジョーカーに感化され、デントが人知れず犯した罪は重い。
でもデントが掲げた精神や生粋さは、ゴッサムに、そしてゴッサムの町民たちの心に光を差し込む。
彼は、犯罪者であってはいけないのだ。ゴッサムを照らすためには。
「私が背負う。私はヒーローではないから」
痺れた。このシーンには本当に痺れた。
ゴードン警部は言う。
「彼は街に必要な人間だ。でも今は”時”が違う」
ダメ押し。ここでも痺れた。
人の才能というものは不憫なもので、例えば素晴らしい芸術作品を作り上げても、生きている間は評価されないこともある。
それは”時”が違うから。周りが必要としていないから。
そういうことを全部含めたゴードンの素晴らしい台詞。
それでは、ブルースに救いはないの?
いや、それは違う。ブルースは幸せものである。
ゴードン警部の息子は言う。「彼は悪くないのに」。泣いた。
そしてレイチェルの本心が記された手紙を、ブルースに渡さずに燃やすアルフレッド。その優しさ。泣いた。
もう、この作品すごいよ。
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と、色々なことを考えてしまった本作。
悲しきかな。映画は一度上映が終わると、スクリーンで拝めることは滅多にない。
もう一度、観たい。劇場で。大スクリーンで。あの迫力を味わいたい。
シネコンなんて、夜は客が入らないじゃないか。特に地方のシネコンは。(現在、佐賀に住む僕が言うのだから、間違いはない)
リクエストを募って、こういう作品を上映すればいいのではないか。
余程稼げると思うけど。
上で述べたような細かいことは置いておいて、ただただ迫力に酔うのももちろんアリ。
トラクターがワイヤーで吊られて縦転するところなんて、意味なく「ヨッシャ!」と思ったし。
病院の爆破シーンもそう。
バットポット出撃シーンなんて、燃えた燃えた。
何と言っても一番好きなのが、ジョーカーのパーティー会場襲撃シーン。
警察のお偉いさんと、判事のおばさん、パーティー会場のシーンを細かく細かく繋ぎ、曲の音量も徐々に上がる。
お偉いさん毒死。判事爆死。
「good evening. ladies and gentleman!」
このシーンだけ、もう何度みたことか。
あ、いけない。まとめなきゃ。
みんな、これを観て狂喜してしまえばいいのだよ。
2008年12月22日月曜日
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