この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
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●変わらない仕草、移ろい行く意味:『ネコを探して』
監督:ミリアム・トネロット
主演:世界中のネコと、その周りのヒト
世界の猫を巡るドキュメンタリー。
しかしその実、追っているのは人間の歴史や文化であって。
人間ではない「外の目線」、第三者の視点から見たとき、ヒトはどう写るのか。
そこがとても興味深かったです。
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飼っていた黒猫:クロが、突如としていなくなった。
飼い主は場所を超え、時空を超え、クロを探す。
クロを追う度、飼い主は様々なネコ、様々なヒトにで会う。
その出逢いが飼い主の、ネコを観る眼と、そして世界を見る眼を変えていく。
設定こそファンタジックだけれど、これはネコとヒトを追ったドキュメンタリー映画。
フランスの女性ジャーナリストがメガホンを取った。
ここ近年『ヒトとケモノの関わり方、ヒトがケモノに対して持つ思い』というものを考えていた僕にとって、この映画は解決へのヒントを少し、与えてくれたように思います。
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例えば。
今も昔も、本能に基づいて生きているケモノにとって、その行動と言うのはまず変わらない。
食べたければ食べる。
寝たければ寝る。
子孫を残し、死んでいく。
ただ、それだけのこと。
それだけのことを遠い昔から変わらずやってきたわけである。
これは考えてやっていることではなく、本能的に行っていることである。
ただヒトは、思考能力がある。
ケモノの行動に、ひいてはそのケモノの存在自体に、必ず意味を求める。
そして導き出した意味を、勝手にケモノに貼り付けては、一喜一憂している。
これはケモノ目線からしたら、ちょっと迷惑なことではなかろうか。
本作で題材とされたネコ。
皆さんは、ネコといわれたときどんなことを思い浮かべるだろうか。
自由?
勝手気まま?
別にネコは考えてそうしているわけではない。
本能的にそういう風に生きているだけである。
しかしその生態は、19世紀フランスの社会情勢下では「自由の象徴」として扱われた。
少し前の時代では、悪魔の化身など「不吉なものの象徴」として扱われていたのに・・だ。
そして今の時代、特に日本に見られる傾向として、ネコは商業には欠かせない存在であり、またペットブームという事も重なり、「癒し」や「安らぎ」を与える存在として扱われている。
何度も言うが、ネコの行動は一つとして変わっていない。
しかし変動する世界情勢、それによって変わるヒトの価値観によって、ネコが行動する「意味」というのは移ろっている。
が、共通していることが一つあるとすれば、それは「”ヒト”にとって都合の良い意味」が付けられているということなのではないかと思った。
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それが顕著なのが、商業的な一面が色濃く出ている現代の日本なのだ。
服を着せたら、ネコが嬉しそうとか。これなんてホント、人間の勝手である。
また、バウリンガルに対抗したミャウリンガル。
これで表示される言葉も・・・いや、勿論販売するからにはある程度ネコの生態にあわせているのだろうけれど、この映画で指摘していた一言、
「ミャウリンガルで表示される言葉に”助けて”はない」
それはそうだ。
保健所で泣き喚いているネコにミャウリンガルをつけたら、恐らく助けての連呼になるはず。
このシークエンスは、保健所でこれから”処理”されてしまうネコたちの映像に重なり、かなり胸に突き刺さった。
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また、ネコカフェの映像も映し出される。
ネコカフェではまさに癒しの存在の象徴として、ネコが扱われている。
やれ、あの子がカワイイだの。
やれ、あの仕草がカワイイだの。
(・・・・うん、カワイイのは確かなのだけど)
ただ、ネコカフェでインタビューを受けていた一組のカップルの言葉は、インパクトが強かった。
女性の方の、
「ネコって、子供の時から大人まで、ずっとカワイイじゃないですか。人間はそういうことないので。それってすごいですよね」
この言葉を受けて、男性が言う。
「人間って、相手の嫌な面とか見てしまうと、飽きて離れるじゃないですか。そいういうの、ネコにはないですよね」
心底癒されたその表情から発せられたこれらの言葉は、僕をゾっとさせた。
それは何故といえば、「人間が今、ペットをどういう風に見ているか」ということを考えてみると分かる。
ペットに服を着せたり。
話しかけ方、対応の仕方(健康管理とか)などが、まるでヒトに対して行っているのと同等(もしくはそれ以上?)であったり。
つまり擬人化というもので、今のヒトたちはネコを、ネコというものを超えヒトとして扱ってしまっている部分がある。
そう考えた上で、先の言葉をもう一度読んで欲しい。
これは極めて危ない発言ではないだろうか。
ヒトとして扱われるネコも、嫌な面を見せられると、飽きられてポイ・・・ということに、なるのではないだろうか。
いや、なるのではないだろうかなんて、言っていられないかもしれない。
野良猫の多さ、保健所で”処理”されてしまうネコの多さを考えたら、それは既に始まっているのかもしれない。
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さて、言いたいことは尽きないのだが、とりあえずここで纏め。
この作品は数多くのことを考えさせてくれる。何か取っ掛かりを与えてくれる。
それはネコ単体での話しでなく、ヒトを含めた生き物全体へと、話を昇華できる。
その中でも僕は、本記事中でも散々言ってきたのでもう飽きたかもしれないが、
・「人間にとって都合の良い意味づけ」
・時代と共に移ろい行く”意味”(ネコは何一つ変わらないのに。。)
という2点を、とても強く感じたし、考えるキッカケともなった。
「こういう作品だと思わなかった」
劇場を出る際、チラと聞こえた一言。
今のヒトたちがネコに対して求めているもの、そしてこの映画で監督が描きたかったことのズレを感じさせる、ズバリな一言でありました。
この一言を素直に観客に引き出させただけでも、この作品は成功なのではないでしょうか。
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・・・久々にまともにブログ記事書いた気がする。
いつもどういう風に書いていたか、感覚を若干忘れてしまった僕。
あと、言葉に落とし込む手法も、なんだか取り戻せてないな。
やはり定期的に書かねば。
2 件のコメント:
Thanks for your intelligent review !!!
I'm the filmdirector of "la Voie du Chat" /『ネコを探して』. No, words are not lost for every one. Especially when, just like you did, you create new analysis, you go further into concepts. Again, thanks for your writing work.
Cheers from France. myriam (twitter : @lavoieduchat)
--> to Myriam
Thanks for your comment!
I couldn't imagine that you read my review.
It's so surprised and honor to me.
Cats were beside people, so long time.
Therefore, it was an interesting concept to watch a person through a cats.
I've learned a lot from this film.
Thank you very much.
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from Umeta (blog manager)
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