2010年7月21日水曜日

梅太@ 弐口メモ:2010.7.21

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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Twinkle, Twinkle, Little Stone:『ショーツ 魔法の石大作戦』
監督:ロバート・ロドリゲス
出演:ジミー・ベネット、あまり日本で報われないが、君に逢えたなら・・・と常々思うカット・デニングス。

 本日7/21は、結局は日本未公開映画になってしまった『ショーツ 魔法の石大作戦』(原題:『SHORTS』)の発売日であった。

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 『SHORTS』とは、”短編集”のこと。
 だから僕も手短に感想を言うと・・・



「油断するな!」



 である。

 本作は・・・・といって結局ちょっと話しはじめるのだけれど、本作はロバート・ロドリゲス監督の新作である。
 ロバート・ロドリゲスには二つの顔がある。

・デスペラード(ならず者の為の映画)な顔
・スパイ・キッズ(子供の為の映画)な顔

 の、二つである。
 僕は前者の方が好きで、本作はあまり気に留めていなかった。
 アントン・イェルチェンに相談役を取られてしまった(イェルチェンなら許すけど)、日本で中々報われない僕の大好きな女優:カット・デニングスが出る!という点のみを考慮し、よし、とりあえず抑えておこうという感じだったが・・・


 「油断するな!」


 とてつもなく奇天烈で、これでもかと笑えて、拍手したくなるほど美事な作品でした。
 随所に施される工夫が、最後まで楽しませてくれます。




 思えばロドリゲスの魅力とは・・・・うん、この辺を話し始めると日を越しそうだからやめておこう。
 そして”短編集”になぞって短めに感想を纏めようと思ったけれど、これがまたまた長くなりそうだ。



 いつかちゃんと書きます。
 とりあえずメモ書き。


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 やっぱりカット・デニングスいいなぁ。
 ちょっとヤンキーっぽいカワイさが良いのだ。
 結局はそこが一番言いたいのだ。

 週末は『ディフェンドー』を鑑賞予定。
 カット・デニングスの出演作で、これまた日本未公開。
 あぁ・・・彼女は報われないのか・・・。悲しい。

2010年7月18日日曜日

梅太@ 劇場:『借りぐらしのアリエッティ』

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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●あの夏に置いてきた、小さな”わすれもの”:『借りぐらしのアリエッティ
監督:米村宏昌
出演:志田未来、神木隆之介


 青春、という言葉から思い出される季節は、圧倒的に夏が多い様な気がする。
 それはなぜだろうか。
 着ている服が薄くなるように、心もどこか、開放的になるからだろうか。

 何にせよ、「夏」というのは、その言葉だけでドキドキしてしまう。
 「夏の出逢い」というものに、憧れてしまう。

 そしてできることなら、この作品の様な出逢いがあったなら、いいな、と思う。
 いやもしくは自分が忘れているだけで、もしかしたら子供時代は、こんな出逢いをしていたのかも・・・


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 ストーリーは。
 心臓の手術を控えた少年:翔は、母が出張中に、親戚の家で一週間を過ごす。
 親戚の家を訪れた初日、翔は庭で、小さな小さな女の子を見かける。

 彼女の名はアリエッティ。”借りぐらし”をする、小人族の一人であった。

 翔は、小人の世界を知る。
 アリエッティは、人間の世界を知る。

 二人の出逢いは、互いの”世界”の見方を変えていく。

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 『借りぐらし』のアリエッティは、小人のお話である。
 人間の住む家のちょっとした隙間から入り込み、必要最低限のものを”借り”て、生活している。
 彼らの住まいは、僕達の家の下。
 普段は気にもしない、暗闇の中。

 さて。

 ファンタジーとは、非現実的な物事を描く。
 しかしそれを紡ぐ作者は、現実に生きる人たちである。

 だから、彼らが紡いでいる物語には、現実世界の中に着想があるはずで・・・

 最近、そういう事を考える。
 素晴らしいファンタジーを観るとなお一層考えてしまう。
 「この人たちはいったいどこからヒントを得ているのだろう・・・」

 そう考える時間、思いを馳せる一時が楽しい。
 この作品の着想の一つとして、僕が考えるのはこれだ。

 家の中で、モノをなくす。
 探しても探しても見つからない。
 しかし、しばらく時間がたったころ、それはあっさりと見つかってしまう。

 「なんでこんな目立つところにあったのに、見つからなかったのだろう」

 作者は考えたのだと思う。

 「きっと誰かがそれを、一時的に”借り”ていたのではないだろうか。」

 誰が?
 それは例えば、小さな小さな人間が。
 でもそこは自分の狭い部屋。
 いくら小人だからって、いつもいる場所だし、一目くらいは見ていてもおかしくない。
 彼らは一体、何処に住んでいるのだろう。

 「そうか、きっと彼らは、家具や床下の狭い狭い隙間に住んでいるんだ、そうに違いない。」

 そうやって人間は、不可思議な出来事に遭遇すると、想像で埋めようとする。
 特に、”ハッキリ”としないものは、想像の宝庫である。
 ”ハッキリ”と見渡せない暗闇の中に、何かいるのではないか。
 ”ハッキリ”と分からない事象には、何が絡んでいるのだろうか。

 そうやって想像することで、人生を楽しくしている。
 そしてその想像を言葉で表すと、本になる。

 作者が想像した創造物が、人の手に渡り、また新たな想像を生み。
 そしてまた、何かが創造される。

 人が想像することをやめない限り、魅力的なファンタジーは、止まることなく生み出される。
 それは僕にとって、とても嬉しい連鎖であると思う。

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 以上のようなことを考えながら、翔とアリエッティの出逢いを見つめる。

 翔にとって当たり前だと思っていた世界の中に、突如としてイレギュラーが入り込む。
 自分の知らない世界があったことを知る。
 現実と、ファンタジーが出会う瞬間だ。

 涙しか出てこなかった。
 想像力の勝利である。

 二人の出逢い以降、僕の想像力は様々な方向へ飛翔していく。

 ただ、風が吹くだけで。
 ただ、草木が揺れるだけで。
 ただ、窓に小石がぶつかるだけで。
 ただ、床が軋むだけで。
 そして。
 ただ、そこに自然と言うものがあるだけで。

 そこには”何か”が潜んでいるのではないか、と思ってしまう。
 そうやって”想像する”だけで楽しくなってしまう。

 それは「夏」という言葉を聞くだけで、”何故か”それだけでドキドキしてしまう感覚に良く似ている。
 この夏、これから起こるであろう出来事を”想像”するだけでワクワクしてしまう。

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 物語は大きなスペクタクルがあるわけでもなく。
 ポニョのような、ド派手な水走りがあるわけでもない。
 ラピュタのようなバルスもない。

 ただ夏が来て。
 ただ二人が出会った。

 それだけの話だ。

 しかし、自然の中でゆっくりと過ぎていく中で、小さな楽しみを見つけ出す。
 その小さな楽しみを、想像力によって、大きな楽しみへと昇華させる。

 そんな夏を、久しく過ごしていなかった様な気がする。

 小さな紙切れに、翔が書いた「わすれもの」の一言。
 僕はあの頃の夏に、ただ想像するだけの楽しさを、忘れてしまったかもしれない。

 それは今からでも、とりにいけるだろうか。


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 この夏は、ワクワクする日々を過ごしたい。

 そんなあなたにオススメの一本。
 いや、必見の一本。

 是非是非、劇場で。

 大好きな作品です。

2010年7月17日土曜日

梅太@ 弐口メモ:2010.7.16

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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ハウルの動く心


 「美しくなければ、生きてる意味なんて無い」

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 『ハウル』と言っておきながら、まず別の話をするけれど・・・

 やはり僕の中で、『ポニョ』というのは特別な作品であったように感じる。
 あの作品があったおかげで、宮崎駿が彼の全作品を通じてやりたかったこと、表現したかったもの、伝えたかった思い・・・というのが、僕の中でかなりクリアになった。

 それはこれまでのジブリ映画の見方を変えさせたし、少なからず、私生活においても影響を与えた。


 今日は、『ハウルの動く城』がテレビでやっていた。
 僕はこの作品を劇場では観ていないし、『ポニョ』を観る前にテレビ放映していたのを見たのが初めてだった。

 あのころ・・・といってもたったの2,3年前だけれど、あのころ見えなかったものが、『ポニョ』があったおかげで見えるようになってきた。

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 しわくちゃになったソフィー。
 醜い姿と化すハウル。
 しかし二人は互いに心を惹かれあう。
 外見なんて、問題じゃない。
 大切なのはその人の本質。

 主要人物二人に焦点を当てると、これはこれはとてもストレートな作品であるように感じる。

 しかし注目したいのは、タイトルにもなっている『城』である。
 まるでガラクタをかき集めて、何も考えずにゴチャゴチャとくっつけ、とりあえず『城』としての体裁を整えている様子は、まるで現代人の姿、そのものではないだろうか。

 あれが大切。これも大切。
 あれを持っておいたほうがいい。 これは捨てられない。
 まぁとりあえず、持っとけば損はしないだろう。

 そうやって色々なものを心にくっつけて。
 そうやって色々な価値観を、あたかも自分のもののように見せかけて。

 ”本当に集めたかったものは何か”
 ”本当に大切なものは何だったのか”

 そして、

 ”何が何でも譲れない、守りたい、と思えるものは何だったのだろうか”

 というのを、次第に忘れてしまう。


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 クライマックスのシークエンス。
 カルシファーを『城』の外へ連れ出すことで、城は崩壊してしまう。

 カルシファーはどういう存在か。
 それは劇中で明かされる。
 ここでも明かしてしまうが、カルシファーはハウルの心だ。

 ”心”を一度、外へ運び出す。
 ”別の視点”で、その”瓦礫の山”を見つめなおす。

 自分は何て沢山のものを、背負い込んでしまっていたのだろうか。
 そう思うのではないだろうか。

 「オイラを外へ連れ出すと、どうなるかわからないぞ」
 カルシファーの吐いた、さり気なく、何も違和感の無いこの台詞。

 一歩外へ踏み出すことの難しさ。
 踏み出すことで変わってしまう色々なもの。
 それらを考えて、前へ踏み出せない現代人の気持ちを象徴する言葉に聞こえてしまったのは、僕だけだろうか。

 カルシファー(=城)は、もう一度動き出す。
 こんどはもっと、シンプルな形で・・・だ。
 そしてまだまだ崩壊を続けていく。
 最後に残ったのは、板切れと足。

 中のものがむき出しのこの状態は、色々なものを剥ぎ取った、その人の本質を表現していると思う。
 その本質は、その心は、小鳥の様に温かい。

 そして剥き出しの状況下で、彼らは”素直な”気持ちをぶつけ合う。

 あなたを愛しています・・・と。


 もし、自分の大切なものが見えなくなったら、自分の心を、色々な方向からグルグルと見つめ直してみるといい。
 グルグルグルグル、メリーゴーランドに乗って。
 そうすると、人生の本質が見えてくるかもしれない。


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 ハウルの心=カルシファー=城

 それらを”動かす”ことで見えてくる、自分と言う存在。
 タイトルだけで10杯くらいは軽くご飯が食べられる、素晴らしい作品です。

 こういうものを比喩的に表現できる宮崎駿の手腕に、最近本気で嫉妬する。