さて、2011年も残りわずかとなってきたところ。
久々にこのブログを確認してみると(管理人がそれでいいのかというのは置いておいて)、作成した記事数が15件という、過去最低数の現状に、反省の色を隠せない私梅太でございます。
これはいかんと思いつつ、でもこれから何十件も書けるほど余裕があるわけでもないので、先ほど頑張って、二ヶ月程考えあぐねていて一つの区切りを付けた「life in a day」という作品の感想を書きました。そして余りにもこのブログから離れすぎていたため、開設3周年(2008年9月1日に開設)をとっくに過ぎていることに気づいてしまいました。
例年であれば記念のトップ画像を作成するところなのですが、ちょっと余裕がないため、今は置いておきます。
では管理人がお互い、映画を見ていないのかと言われると決してそうではありません。ゲンさんは相変わらず沢山の作品を見ていますし、律儀にtwitterで感想を残している...はずです。(すいません、最近twitter覗いてないので想像でお送りしました)。
また私梅太に関して言えば、びっくりする程劇場へ通っておりません。でも映画を見ていないかと言われるとそうではなく、チャップリン作品に触れるという今年掲げていた宿題をしたり、「super8」上映にあたり、スピルバーグの長編作品を全て見返してみたりなどしていました。映画に対する愛は変わりを見せず、むしろ他に様々な体験をして(外部ブログにて、文章に真剣に向き合ってみたりとか)、”作品”というものに対する取り組み方が良い方向に変わってきたように思います。
そして二人でたまに会うと、やはり映画の話をしてしまうのです。大丈夫です、お互いまだ映画は好きです。(いや、だれも心配していないかな)
これからこのブログをどう更新していくか、それはその内、話しておかなければいけないなと思いつつも、とりあえず今は、無事に3周年を迎えられたことに対し、読者の皆様へは本当に感謝しております。
よければこれからも、少しだけでも覗いていただけるとありがたく思います。
簡易的で間に合わせ的な文章で申し訳ありませんが、来週はゲンさんも僕も記念日(誕生日!)を迎えてしまいますから、その前に一つ、区切りを付けたかったのです。
では皆様、素敵な映画ライフを。
2011年11月20日日曜日
梅太@劇場 一日ってなんだろう〜life in a day〜
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします。
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11月3日は、今から約50年前に、スプートニク2号が打ち上げられ、人間よりも一足早く、犬が宇宙へと旅だった。その事実を知ったのは、村上春樹の小説「スプートニクの恋人」を読んだ時だった。勤労感謝の日とか、秋分の日とか、それが何月何日かはパッと言えないけれど、物語の内容も相まって、11月3日という日は、僕の記憶に残ることになった。手帳にも、チェックをつけた。
来る11月3日。手帳を広げてその日が何の日か思い出して、改めて「スプートニクの恋人」を読み始めた。世界の内、数人かは、きっとスプートニク号のことを思い出したのだろうか、それはもちろん分からない。
映画や小説を読んでいると、作者は物語の中で、何故この日を舞台にしたのだろうと思う時がある。「500日のサマー」では、主人公とヒロインが出会うのは1月8日であるし、「アメリ」では、アメリが生まれたのは9月3日ということだ。スプートニク号については、完成時期とか天候とかそういうのが重なって11月3日に打ち上げたということなのだろうが、物語の場合は、作者は自由に日にちを選ぶことができる。一年は365日あるわけだし、年号については、紀元後は2000幾通りの選び方がある。そんな中、ある一日を選ぶというのはなかなか難しい作業のような気がする。
選ばれたその日には、何か意味があるようで、実際はそんなに意味はないかもしれなくて。
ここで、ある一日に焦点を当ててみる。2010年の7月24日。
僕は何をしていただろう。
夏の盛りのこの日は、土曜日であったそうだ。天気は晴れ、最高気温は35℃、最低気温27℃。暑い暑い一日だったのだろう。曜日は昨年のカレンダーを見ればいいし、天候はインターネットで簡単に調べられる。
では、その日、僕は具体的に何をしていたのだろう。
多分、昨年の手帳を見ればすぐに分かるはずだ。しかしパッとは思い出せない。ということは、ありふれた一日だったのかもしれない。では特別な日であったら覚えていたか・・・と考えてみても、余程のことでなければ覚えていないだろう。
では、一日ってなんだろう。
「LIFE IN A DAY」という作品は、2010年7月24日の出来事を描く。僕はこの日、何かをしていて、でも他の人は、その人の一日を送っていた。それを意識することは多分できない。僕はその人ではないから。しかしこの作品は、沢山の国の、沢山の人の、この2010年7月24日という日の生活を見せてくれる。僕が僕である以上、絶対に覗けなかった他の人の一日の生活。
この日もいつも通り、日が上る前の一番暗い時間があった。日が昇り、傾き、沈んだ。
この日が始まりになった人もいた。
この日が終わりになった人もいた。
何かを成し遂げた人もいた。
何かに感謝を捧げた人もいた。
人が聞いたら眉をひそめそうな差別的な発言をする人もいたし、自分を肯定してくれる人がいることを再認識した人もいた。
良いことをし、悪いことをし、人が傷つき、死ぬこともあった。そういう世俗とはまったく無関係(無関心)の人もいた。
たった24時間の間でも沢山の(ちんけな言葉かも知れないけど、本当に沢山の)出来事があって、当たり前かもしれないけれど、綺麗事だけでは済まされないそんな沢山の出来事を、すべて把握しきれるほど、一人の人間の容量というのは大きなものではない。
そう、一人の人間に出来ることは決して大きくない、ということを、また自分が人に意見できる立場にあるのかどうかということを、私たちはたまに忘れてしまうことがある。特にこの映画の様に、様々な人の意見を聞いていると、自分の価値観にあわないものも当然あって、「それは違うんじゃないか」なんて言いたくなる時もある。
でも最近思うのは、僕はそういった”自分の絶対的な意見”というのをあまり持っていないかなとも思い始めている。先日、とある先輩から言われた一言がきっかけで考え始めたのだけれど(そのおかげで、最近我武者羅なのだけれど)、そういうものを持ってない自分が、相手の意見が違うということを、はっきりと言えるのだろうか、そんな風に思い始めている。
そして一人の人間に出来ることの大きさ、という事に関して言えば、この映画では様々な人の生活が除けて、余分な映像処理をしていない分、確かな手触りをもってそこに映し出されて、今そこで起こっているような、そんな生々しさを伴っているのだけれど、でも冷静になってみると、その世界には手は届かないことに気付く。スクリーンの向こう側で困っている人がいても、手を差し述べることはできない。
2010年7月24日が、全く持って普通の日であったという女の子の言葉が残響の様に頭に響きながら、エンドロールを迎えるのだが、そこで出てくる「Mind your own bussiness」という言葉。字幕では「他人の事に口出しするな」と、散々他人の生活を見せてきて、最後に突き放された様な感覚に陥るわけだけれど、これは実は、とても優しい言葉なのだと後で思った。
自分の限界を超えた何かをしようとすると、もちろんそれは自分の成長に繋がる部分もあるわけだけれど、事が大きすぎて、仕上げが雑になって、かえって人に迷惑をかけてしまうこともある。先に述べたとおり、一人に出来る事は限られていて、一人が把握できる世界(人)なんて、全人口からしたらたかがしれている。だからまずは、自を固めてみること、自分の持っている世界の中で、何が出来て何が出来ないかを把握すること、そして人の手を借りれば、更にこれくらいのことが出来るということ、外部の手を借りればもっと...そういうものを、しっかりと固めていきたいと最近思い始めている。
さて僕は、かなりの頻度で自分の容量というものを忘れてしまう。人から頼まれ事をされると、詳細を聞く前にまず「はい」という。やってみると思わぬ深みにはまってしまう場合もあるが、でも新しい経験が出来るから、僕は特に気にしていなかったし、ありがとうと言ってもらえるのはやはり嬉しい。しかし今年にこれまでに、僕の身に起こった様々な出来事と、先日とある人に言われた一言によって、ちょっと(こういう言い方はしたくはないのだけれど)人に気を使っている場合ではないなと感じ始め、今そこを必死に、何とかしようとしている最中である。何とかなるかは今のところわからない。でもこれは必要な作業なのだと、考えた末の行動である。それでも、人に声をかけられたら、まず話を聞くという姿勢は、絶対に絶対に、忘れないけれど、でも今の自分に無理だと感じたら、もしかしたら断ってしまうかも知れない。そこは許してほしい。かも。
さて、先に書いた「では、一日ってなんだろう」という問いかけに対して、僕が思うに、大切な一日、特別な一日というのは確かにあって、でも過ぎ去ったその一日を、四六時中覚えているわけでもない。だから、その一日だけで、人生に何か意味が成されるということは無いのだと思う。劇中でも登場するが、プロポーズをしたその日、めでたく受諾されたとして、でもその本当の意味は、その後の生活によって形成されていく。
この作品は、ある一日を切り取ったものだ。物事が意味を成していく、その過程の中の一日を組み合わせてみても、それは結局過程の寄り集めでしかなく、だから明確な結論がつけられずに締めくくられる。しかし明確な結論がないからこそ、各々の「一日」の考え方が生まれていく。この映画をきっかけにして、自分の中で「一日」がどういうものか、考えてみるのもいいかも知れない。もしかしたら、これからの過ごし方が、少し変わっていくかも知れない。
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11月3日は、今から約50年前に、スプートニク2号が打ち上げられ、人間よりも一足早く、犬が宇宙へと旅だった。その事実を知ったのは、村上春樹の小説「スプートニクの恋人」を読んだ時だった。勤労感謝の日とか、秋分の日とか、それが何月何日かはパッと言えないけれど、物語の内容も相まって、11月3日という日は、僕の記憶に残ることになった。手帳にも、チェックをつけた。
来る11月3日。手帳を広げてその日が何の日か思い出して、改めて「スプートニクの恋人」を読み始めた。世界の内、数人かは、きっとスプートニク号のことを思い出したのだろうか、それはもちろん分からない。
映画や小説を読んでいると、作者は物語の中で、何故この日を舞台にしたのだろうと思う時がある。「500日のサマー」では、主人公とヒロインが出会うのは1月8日であるし、「アメリ」では、アメリが生まれたのは9月3日ということだ。スプートニク号については、完成時期とか天候とかそういうのが重なって11月3日に打ち上げたということなのだろうが、物語の場合は、作者は自由に日にちを選ぶことができる。一年は365日あるわけだし、年号については、紀元後は2000幾通りの選び方がある。そんな中、ある一日を選ぶというのはなかなか難しい作業のような気がする。
選ばれたその日には、何か意味があるようで、実際はそんなに意味はないかもしれなくて。
ここで、ある一日に焦点を当ててみる。2010年の7月24日。
僕は何をしていただろう。
夏の盛りのこの日は、土曜日であったそうだ。天気は晴れ、最高気温は35℃、最低気温27℃。暑い暑い一日だったのだろう。曜日は昨年のカレンダーを見ればいいし、天候はインターネットで簡単に調べられる。
では、その日、僕は具体的に何をしていたのだろう。
多分、昨年の手帳を見ればすぐに分かるはずだ。しかしパッとは思い出せない。ということは、ありふれた一日だったのかもしれない。では特別な日であったら覚えていたか・・・と考えてみても、余程のことでなければ覚えていないだろう。
では、一日ってなんだろう。
「LIFE IN A DAY」という作品は、2010年7月24日の出来事を描く。僕はこの日、何かをしていて、でも他の人は、その人の一日を送っていた。それを意識することは多分できない。僕はその人ではないから。しかしこの作品は、沢山の国の、沢山の人の、この2010年7月24日という日の生活を見せてくれる。僕が僕である以上、絶対に覗けなかった他の人の一日の生活。
この日もいつも通り、日が上る前の一番暗い時間があった。日が昇り、傾き、沈んだ。
この日が始まりになった人もいた。
この日が終わりになった人もいた。
何かを成し遂げた人もいた。
何かに感謝を捧げた人もいた。
人が聞いたら眉をひそめそうな差別的な発言をする人もいたし、自分を肯定してくれる人がいることを再認識した人もいた。
良いことをし、悪いことをし、人が傷つき、死ぬこともあった。そういう世俗とはまったく無関係(無関心)の人もいた。
たった24時間の間でも沢山の(ちんけな言葉かも知れないけど、本当に沢山の)出来事があって、当たり前かもしれないけれど、綺麗事だけでは済まされないそんな沢山の出来事を、すべて把握しきれるほど、一人の人間の容量というのは大きなものではない。
そう、一人の人間に出来ることは決して大きくない、ということを、また自分が人に意見できる立場にあるのかどうかということを、私たちはたまに忘れてしまうことがある。特にこの映画の様に、様々な人の意見を聞いていると、自分の価値観にあわないものも当然あって、「それは違うんじゃないか」なんて言いたくなる時もある。
でも最近思うのは、僕はそういった”自分の絶対的な意見”というのをあまり持っていないかなとも思い始めている。先日、とある先輩から言われた一言がきっかけで考え始めたのだけれど(そのおかげで、最近我武者羅なのだけれど)、そういうものを持ってない自分が、相手の意見が違うということを、はっきりと言えるのだろうか、そんな風に思い始めている。
そして一人の人間に出来ることの大きさ、という事に関して言えば、この映画では様々な人の生活が除けて、余分な映像処理をしていない分、確かな手触りをもってそこに映し出されて、今そこで起こっているような、そんな生々しさを伴っているのだけれど、でも冷静になってみると、その世界には手は届かないことに気付く。スクリーンの向こう側で困っている人がいても、手を差し述べることはできない。
2010年7月24日が、全く持って普通の日であったという女の子の言葉が残響の様に頭に響きながら、エンドロールを迎えるのだが、そこで出てくる「Mind your own bussiness」という言葉。字幕では「他人の事に口出しするな」と、散々他人の生活を見せてきて、最後に突き放された様な感覚に陥るわけだけれど、これは実は、とても優しい言葉なのだと後で思った。
自分の限界を超えた何かをしようとすると、もちろんそれは自分の成長に繋がる部分もあるわけだけれど、事が大きすぎて、仕上げが雑になって、かえって人に迷惑をかけてしまうこともある。先に述べたとおり、一人に出来る事は限られていて、一人が把握できる世界(人)なんて、全人口からしたらたかがしれている。だからまずは、自を固めてみること、自分の持っている世界の中で、何が出来て何が出来ないかを把握すること、そして人の手を借りれば、更にこれくらいのことが出来るということ、外部の手を借りればもっと...そういうものを、しっかりと固めていきたいと最近思い始めている。
さて僕は、かなりの頻度で自分の容量というものを忘れてしまう。人から頼まれ事をされると、詳細を聞く前にまず「はい」という。やってみると思わぬ深みにはまってしまう場合もあるが、でも新しい経験が出来るから、僕は特に気にしていなかったし、ありがとうと言ってもらえるのはやはり嬉しい。しかし今年にこれまでに、僕の身に起こった様々な出来事と、先日とある人に言われた一言によって、ちょっと(こういう言い方はしたくはないのだけれど)人に気を使っている場合ではないなと感じ始め、今そこを必死に、何とかしようとしている最中である。何とかなるかは今のところわからない。でもこれは必要な作業なのだと、考えた末の行動である。それでも、人に声をかけられたら、まず話を聞くという姿勢は、絶対に絶対に、忘れないけれど、でも今の自分に無理だと感じたら、もしかしたら断ってしまうかも知れない。そこは許してほしい。かも。
さて、先に書いた「では、一日ってなんだろう」という問いかけに対して、僕が思うに、大切な一日、特別な一日というのは確かにあって、でも過ぎ去ったその一日を、四六時中覚えているわけでもない。だから、その一日だけで、人生に何か意味が成されるということは無いのだと思う。劇中でも登場するが、プロポーズをしたその日、めでたく受諾されたとして、でもその本当の意味は、その後の生活によって形成されていく。
この作品は、ある一日を切り取ったものだ。物事が意味を成していく、その過程の中の一日を組み合わせてみても、それは結局過程の寄り集めでしかなく、だから明確な結論がつけられずに締めくくられる。しかし明確な結論がないからこそ、各々の「一日」の考え方が生まれていく。この映画をきっかけにして、自分の中で「一日」がどういうものか、考えてみるのもいいかも知れない。もしかしたら、これからの過ごし方が、少し変わっていくかも知れない。
2011年6月24日金曜日
梅太@ 劇場:スーパー8 ~危険を冒すこと、それが冒険~
この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
子供の頃は、通いなれたエリアでさえ、知らない場所は沢山あった。
あの角の先には何があるのだろう。この狭い路地を抜けると何があるんだろう。自分の住む7丁目から出るのも、ちょっとした緊張を伴った。その緊張は少しの怖さに変わり、その怖さはワクワクに変わった。好奇心、探求心。それに抗える子供なんて、なかなかいない。
知らない場所で得られる物は、新しい景色、勝手の知らない道。そして無事に帰れるかどうか、という不安。しかし次に訪れる時は、そこは見知った町並み。精神的に安全なエリアとなる。
いくつかの恐怖と、「ここまでは行動しても安全だ」という加減の見極め、それを自然と繰り返しながら、私たちは年をとっていく。
子供の頃は、知らないことが沢山あった。
学校で勉強すること、それも含まれるけれど、例えば友人との付き合いにおいても、好きな人苦手な人、様々な人がいて、その感情をストレートに出してしまうが故に、相手を傷つけてしまう場合もある。また人との関係には、出会いもあれば別れもあって、初めて体験するそれらは、ただ過ぎていくイベントであるけれど、別れる事に寂しさを覚え始めると、人との体験を何より大切にするようになるり、出会いの楽しさを覚えれば、いつでもそれを求めるようになる。家族関係においても、親の言うことを聞かず、ダダをこねて困らせてしまったり。ふとした瞬間に、親の優しさを知ってしまったり。
「どうしたら相手に不快な思いをさせずに済むんだろう」「どうしたら相手に喜んでもらえるんだろう」という自問自答を自然に繰り返しながら、私たちは年をとっていく。
思えば大人になると言うことは、その加減を知っていく事なのだと思う。それが全てというわけでなく、一つの側面として。
しかしいつしか、加減を知りすぎて、そのエリアから外を見なくなる人もいる。もちろんそれは悪いことではない。危険なことはやはり危険だから。危険を冒して身を滅ぼすならば、自分のエリアにいた方が安心できるから。
「スーパー8」で描かれる主人公は、自分のエリアを忠実に守る少年であると感じた。理解してもらえる幼なじみがいて、優しくしてくれる近所のおじさん達がいて。趣味を共にする仲間がいて。母を失い、その悲しみが時に自分に陰を落としても誰も文句は言わない。そして自分を肯定してくれる女の子との出会いがあって、このまま世界が進んでいくかの様に思えた。そんな中、突如舞い込んだ異分子。正体不明のその存在に、自分の生活は次第に脅かされていく。心の寄り処であった母の面影も、そのドタバタの中では時に忘れてしまうこともある。
それは肉体的にも精神的にも、今まで過ごしていた自分のエリアの、確かに外の出来事だ。その体験を通じ、友に頼るだけが生きる道でなく、悲しみに浸るだけが、母を想うことではないと悟る。外に出ることで、危険を冒すことで、彼は外の世界を知り、解決への道が一辺倒でないことを知る。
冒険というのは、どんな種類の物であれ、いつの時代のものであれ、無事にそれを終えられたとき、その人を一回り成長させる物なのだ。どう成長したかは、もう少し大人に成ってみないとわからないけれど。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
子供の頃は、通いなれたエリアでさえ、知らない場所は沢山あった。
あの角の先には何があるのだろう。この狭い路地を抜けると何があるんだろう。自分の住む7丁目から出るのも、ちょっとした緊張を伴った。その緊張は少しの怖さに変わり、その怖さはワクワクに変わった。好奇心、探求心。それに抗える子供なんて、なかなかいない。
知らない場所で得られる物は、新しい景色、勝手の知らない道。そして無事に帰れるかどうか、という不安。しかし次に訪れる時は、そこは見知った町並み。精神的に安全なエリアとなる。
いくつかの恐怖と、「ここまでは行動しても安全だ」という加減の見極め、それを自然と繰り返しながら、私たちは年をとっていく。
子供の頃は、知らないことが沢山あった。
学校で勉強すること、それも含まれるけれど、例えば友人との付き合いにおいても、好きな人苦手な人、様々な人がいて、その感情をストレートに出してしまうが故に、相手を傷つけてしまう場合もある。また人との関係には、出会いもあれば別れもあって、初めて体験するそれらは、ただ過ぎていくイベントであるけれど、別れる事に寂しさを覚え始めると、人との体験を何より大切にするようになるり、出会いの楽しさを覚えれば、いつでもそれを求めるようになる。家族関係においても、親の言うことを聞かず、ダダをこねて困らせてしまったり。ふとした瞬間に、親の優しさを知ってしまったり。
「どうしたら相手に不快な思いをさせずに済むんだろう」「どうしたら相手に喜んでもらえるんだろう」という自問自答を自然に繰り返しながら、私たちは年をとっていく。
思えば大人になると言うことは、その加減を知っていく事なのだと思う。それが全てというわけでなく、一つの側面として。
しかしいつしか、加減を知りすぎて、そのエリアから外を見なくなる人もいる。もちろんそれは悪いことではない。危険なことはやはり危険だから。危険を冒して身を滅ぼすならば、自分のエリアにいた方が安心できるから。
「スーパー8」で描かれる主人公は、自分のエリアを忠実に守る少年であると感じた。理解してもらえる幼なじみがいて、優しくしてくれる近所のおじさん達がいて。趣味を共にする仲間がいて。母を失い、その悲しみが時に自分に陰を落としても誰も文句は言わない。そして自分を肯定してくれる女の子との出会いがあって、このまま世界が進んでいくかの様に思えた。そんな中、突如舞い込んだ異分子。正体不明のその存在に、自分の生活は次第に脅かされていく。心の寄り処であった母の面影も、そのドタバタの中では時に忘れてしまうこともある。
それは肉体的にも精神的にも、今まで過ごしていた自分のエリアの、確かに外の出来事だ。その体験を通じ、友に頼るだけが生きる道でなく、悲しみに浸るだけが、母を想うことではないと悟る。外に出ることで、危険を冒すことで、彼は外の世界を知り、解決への道が一辺倒でないことを知る。
冒険というのは、どんな種類の物であれ、いつの時代のものであれ、無事にそれを終えられたとき、その人を一回り成長させる物なのだ。どう成長したかは、もう少し大人に成ってみないとわからないけれど。
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