2011年6月24日金曜日

梅太@ 劇場:スーパー8 ~危険を冒すこと、それが冒険~

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 子供の頃は、通いなれたエリアでさえ、知らない場所は沢山あった。
 あの角の先には何があるのだろう。この狭い路地を抜けると何があるんだろう。自分の住む7丁目から出るのも、ちょっとした緊張を伴った。その緊張は少しの怖さに変わり、その怖さはワクワクに変わった。好奇心、探求心。それに抗える子供なんて、なかなかいない。
 知らない場所で得られる物は、新しい景色、勝手の知らない道。そして無事に帰れるかどうか、という不安。しかし次に訪れる時は、そこは見知った町並み。精神的に安全なエリアとなる。
 いくつかの恐怖と、「ここまでは行動しても安全だ」という加減の見極め、それを自然と繰り返しながら、私たちは年をとっていく。

 子供の頃は、知らないことが沢山あった。
 学校で勉強すること、それも含まれるけれど、例えば友人との付き合いにおいても、好きな人苦手な人、様々な人がいて、その感情をストレートに出してしまうが故に、相手を傷つけてしまう場合もある。また人との関係には、出会いもあれば別れもあって、初めて体験するそれらは、ただ過ぎていくイベントであるけれど、別れる事に寂しさを覚え始めると、人との体験を何より大切にするようになるり、出会いの楽しさを覚えれば、いつでもそれを求めるようになる。家族関係においても、親の言うことを聞かず、ダダをこねて困らせてしまったり。ふとした瞬間に、親の優しさを知ってしまったり。
 「どうしたら相手に不快な思いをさせずに済むんだろう」「どうしたら相手に喜んでもらえるんだろう」という自問自答を自然に繰り返しながら、私たちは年をとっていく。

 思えば大人になると言うことは、その加減を知っていく事なのだと思う。それが全てというわけでなく、一つの側面として。
 しかしいつしか、加減を知りすぎて、そのエリアから外を見なくなる人もいる。もちろんそれは悪いことではない。危険なことはやはり危険だから。危険を冒して身を滅ぼすならば、自分のエリアにいた方が安心できるから。

 「スーパー8」で描かれる主人公は、自分のエリアを忠実に守る少年であると感じた。理解してもらえる幼なじみがいて、優しくしてくれる近所のおじさん達がいて。趣味を共にする仲間がいて。母を失い、その悲しみが時に自分に陰を落としても誰も文句は言わない。そして自分を肯定してくれる女の子との出会いがあって、このまま世界が進んでいくかの様に思えた。そんな中、突如舞い込んだ異分子。正体不明のその存在に、自分の生活は次第に脅かされていく。心の寄り処であった母の面影も、そのドタバタの中では時に忘れてしまうこともある。

 それは肉体的にも精神的にも、今まで過ごしていた自分のエリアの、確かに外の出来事だ。その体験を通じ、友に頼るだけが生きる道でなく、悲しみに浸るだけが、母を想うことではないと悟る。外に出ることで、危険を冒すことで、彼は外の世界を知り、解決への道が一辺倒でないことを知る。

 冒険というのは、どんな種類の物であれ、いつの時代のものであれ、無事にそれを終えられたとき、その人を一回り成長させる物なのだ。どう成長したかは、もう少し大人に成ってみないとわからないけれど。

2011年5月28日土曜日

梅太@ コラボでシネマ:運命と恋

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 朝、目覚ましがなった時、その瞬間に起きるか、もう5分寝るか。朝ご飯は和食と洋食どちらにしようか。
 家を出ると空は曇りで、傘を持っていくかいかないか。
 この会議の決断でyesと答えるか否か。
 夜、本を読んでいて、キリの良いところまで読むか、明日のことを考えて早めに寝るか。
 人一人の人生は幾つもの選択の上に成り立っている。
 そして生きている以上、人との関わり合いは必ず発生していて、相手の人生の中にも幾つもの選択があって、つまりは自分の選択に相手の選択が複雑に絡み合いながら、人生は続いていく。
 
 ふと振り返り、自分が歩んできた道を眺めると、その道には沢山の分岐点があり、それを見てしまうと「あの時こうしていれば」と、人間はどうしても”if”を考えてしまう。あの時別の道を選んでいれば、確かに別の人生があったはずで、それを想像せずにはいられない。
 そして前を見ると、そこに道はなく、これからも沢山の”if”が待ち受けていることだろう。
 しかし、その”if”が既に、誰かに決められていたのなら。自分の気付かぬ内に既に、決められたレールの上を歩んでいたとしたら・・・

 それが、「アジャストメント」という作品。
 この作品の面白いところは「調整局」という存在で、そこに所属する人達は、決められた道から人間がはずれないよう軌道修正をする役割を担っている。先に書いたように、これから歩んでいく道には大小様々な”if”があって、ちょっとしたきっかけで別の道に迷い込んでしまうことだってある。迷い込む前に「こっちだよ」と呼びかけたり、迷い込んでしまった場合は何とかして元の道へ戻る選択肢を構築する。つまり人生というのはそれだけ可能性に満ちているという事で、それを管理しなければいけない調整局の人達には、本当にご苦労様と言ってあげたい。いや、そこではないか。
 主人公はある出来事によって、「既に書かれた筋書き」と、「調整局」の存在を知ってしまう。もちろん回りはそんなことはお構いなしに悠々と生きている。ここがミソだと思いました。気付いてしまって、その人に野心というかそういうものがあったとしたら、抗いたくなるのが人間の性である。心の底から愛する人を見つけ、その人と白紙の人生(unwritten life)を求める主人公と、その出会いは起こってはいけない出来事だったと、調整し修正しようとようとする局。その駆け引きはとてもスリリングであった。

 調整局は日々、人間の道を観察しているが、雨が降るとその能力(?)が使えないという設定は、考えを巡らすと面白い要素だと思った。
 雨が一滴、ポツンと地面に落ちる。それは偶然その場所に落ちたかとそう思うけれど、実は雨はその滴の質量、その日の風向き、その他色々の因子が混ざり合った結果、ある場所に落ちる。一滴が集まり、水流を作る。水の流れも、地面の起伏など沢山の要因でその方向性を決める。つまり雨にまつわる一連の出来事も沢山の”if”があって、恐らくそれが、人間の観察を阻害するのだろう。
 人の人生と、水の流れ。この二つにはどこか共通する物があるのだなと気付かされた。

 そして人生と水の関連性というところで、僕にはもう一つ、思い浮かぶ作品があった。それが「君がぼくを見つけた日」である。
 「君がぼくを見つけた日」は、遺伝子異常でタイムトラベルをしてしまう男と、そんな人に恋をしてしまったある女性のお話。とてもロマンチックな作品だけれど、僕はこの作品については、恋愛的な要素よりも、この作品独自のタイムトラベルの設定に、より惹かれた。(僕はSFが大好きでなのです)
 男はいつでも好きな時代へいけるというわけではない。また自分が関わっていない時代には飛んでいけない。自分の人生の、重要な出来事に惹かれ、その時間へ飛んでいく。しかしその時間に干渉してみると、確かに少しは変化があるかもしれないが、大きな意味で、人生の流れが変わるわけではない。例えば幼少のころ母親を交通事故で亡くした男は、その時間に飛んだとき、何とか阻止しようといつも試みるが、どうあっても防ぐことはできない。愛する人を見つけ、結婚し、いつまでも幸せに暮らしたいと願うが、いつの時間かに起こってしまう自分の事故死を防ぐことはできない。
 例えば川に小石を投げ入れる。大きな大きな川に。その石はポチャンと、小さな波紋を起こすだろう。しかしそれによって川の流れが変わるわけでは決してない。海の入り口、川の終わりへ向かってただただ流れていく。川はその人の歩む道、小石はタイムトラベルをする男。小石程度では流れは、運命は変わることなく、ひたすら終わりへ向かって突き進む。
 オープニングシークエンスの水の表現があるが故に、この作品を見たときも、時間と人生とそして水の関連性を考えずにはいられなくて、この度「アジャストメント」を見たとき、再びその思考が巡った。
 そしてこの二作品で描かれる恋は、対照的であるように感じた。「アジャストメント」は運命に抗う恋、「君がぼくをみつけた日」はどうあっても運命に抗えなかった恋。なるほど、対照的。ただ救いとしては、どちらの恋も、それぞれの形で成就しているということだ。「ブルー・バレンタイン」を見た後だと、救いのある物語というのは心が明るくなるものだと切に感じる。



●この記事で紹介したもの

・「ベンジャミンバトン 数奇な人生」
・「アジャストメント」
・「君がぼくを見つけた日」
・「ブルー・バレンタイン」

 

2011年5月22日日曜日

梅太@ 劇場:メアリー&マックス

この記事は 梅太 の名の下にお送りいたします

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 「アフターダーク」という村上春樹の小説は、主人公の女の子が渋谷のファミレスで深夜に読書をしていると、ある男がいきなり相席してきて、その男と関わったが故に多少のいざこざに巻き込まれるのだけれど、結果的にはとりとめて何も起こらず夜が明けるという作品。
 筋書きだけ読んでも特に興味は惹かれないかもしれないし、内容としても大きなスペクタクルがあるわけでもないけれど、不思議とこの作品は僕の心に引っかかる。

 この物語の中で描かれる出会いは、主人公の女の子と相席した男を別にすると、ほとんどが一過性のものになる。ラブホの店長、暴力を振るわれた少女、コンビニに落ちていた鳴り続ける携帯電話。それぞれの視点に立てば、各々それなりの結末を迎えるのだが、主人公目線に立つと、実は何も解決はしていない。ふとしたきっかけで出会って、通り過ぎるだけのものである。
 ただこの物語を自分の生活に置き換えてみたとき、僕の普段の生活も、気付かぬ内に出会いと別れを繰り返しているということに思い至った。
 例えば電車に乗っていて、自分の隣に座った人がいる。その人にはその人の世界があって、でもたまたま何かのご縁で、とあるタイミングで僕の隣に座る。一瞬、世界が交わる。しかし何もなく、それぞれの道へ向かって歩き始め、世界は離れていく。人でなくても良い。花でも食べ物でも景色でもゴミでも、生きている内は何かに出会い、そして分かれる。

 「メアリー&マックス」という作品は、オーストラリアに住む内公的な少女が郵便局で親を待つ間、暇を持て余して住所録を眺め、「そうだ、この人に手紙を送ってみよう」と思い立ち、行動に移す。その手紙はニューヨークの、これまた余り外向的とは言えない中年男性の元に届き、二人の文通が始まって・・・というものだ。
 この二人の出会いは全て、ふとした思い立ちの積み重ねで成り立っている。
 親と一緒に郵便局に行く。暇を持て余して住所録を読む。ニューヨークって不思議な名前の人が多いねと思う。そうだ、手紙を送ろうとなる。少女の道が、見知らぬ誰かの道と交わろうと、行く先をじわりじわりと変えている。 相手先の中年男性が、「なんだこの手紙は!?」と突っぱねてしまえば、道は交わることはなかった。だが手紙の内容が男の琴線に触れ、少女の好奇心に答えようと、お返事を返す。二つの道は交差を始めた。

 出会ったものに興味を持ち始めると、自分と相手の世界は交差を始め、自分にとって知らなかった道が見えてくる。その交わった道について、進んでいる内はその出会いが自分たちにもたらした大きな影響には気付けないけれど、ふと立ち止まり振り返ってみると、出会う前に歩んでいた道の延長線を歩いているだけでは一生気付けなかったことを教えてくれたりする。全部が良い影響とも限らない。悪いことばかりでもない。また、与えてくれた影響を見落としてしまうこともままある。それでも出会いというのはそれほどに大きなものであって、「へぇ」と一瞥して過ぎ去って行かせるには、余りにも惜しいことなのだ。

 見えるもの・出会うもの全てと付き合うことは、一人の人間のキャパシティとしては難しいことだけれど、でも興味を持ったものとは出来るだけ、付き合いを深めていきたいと思うし、また相手にも、自分に対して興味を少しでも持ってくれたなら、それはとても嬉しいことだと思う。

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 「メアリー&マックス」について、その内容にはほとんど触れておらず、また鑑賞された皆様方においては、全く違った印象を与えられていると思う。
 これは事実を元にした作品で、しかしクレイアニメーションで描かれているが故に、どこか寓話的な雰囲気が流れている。欠点を受け入れて生きていくこと、そんなメッセージを伝える上で、アニメを用いてダイレクトさをグッとと抑えることで、かえって想像の幅は広がっていった。思いを伝えるための表現手法の選定というのはとても難しいと思うが、本作の様にガチっと合ってしまうと、その物語の人に及ぼす影響の可能性は、無限に広がる様に思う。僕にとってこの作品は、交わる二つの道というのを見つめるのに、とても良い影響を与えてくれた。

 良い出会いでした。